特別寄稿

100の手仕事一覧「東北のあちこちで、ものづくりを通した復興プロジェクトが始まっている。その現場をひとつずつ紹介していくメディアをつくりたい」。

宮城県の牡鹿半島で、被災した女性たちと一緒に、鹿角のアクセサリー「OCICA」や漁網ミサンガ「マーメイド」をつくっていた友廣裕一くんからそんな相談を受けたのは、東日本大震災から1年が経つか経たないかの頃です。2012年の夏から東北に通いはじめ、2013年の3月にウェブメディア『東北マニュファクチュール・ストーリー』を開設しました。

それから月に1団体のペースで更新を続け、2021年3月現在、訪問した団体数は100を超えました。再訪問して「その後」を伝えた団体もあるので、記事数は118にのぼります。

初期のサイト画像

紡いで、染めて、織って、編んで、縫って、刺して、描いて、塗って、飾って、焼いて、溶かして、組み立てて。こんなにも多彩な手仕事が同時期に誕生したことを思うと、本当にふしぎな気持ちになります。

よく、「もう多くの団体が活動していないんでしょう?」と言われるのですが、実は取材した団体の8割前後がいまも活動を続けています。復興プロジェクトとして始まったものが、その枠を超え、仕事やコミュニティ、趣味や生きがいとして東北の人々の暮らしに根づいているのです。

震災から10年の節目に、取材を通して考えてきたことを振り返ろうと思います。


(文・ライター 飛田恵美子)

傷ついた人のこころを癒した「ものづくり」

さきに「100を超える団体を取材した」と書きましたが、取材する前に終わってしまった団体や取材ができなかった団体を含めると、震災後、東北には数百の手仕事グループが生まれていました。

津波の恐ろしさや失ったもののことで頭がいっぱいになっていたけど、ものづくりをしている間は何も考えずに没頭できた。支援してもらってばかりで「ありがとう」と頭を下げることしかできない日々に情けなさを感じていたけど、つくったものを贈って「ありがとう」と言われたことで、力が湧いてきた。そんな言葉を何度も耳にしました。

積み重ねてきたものを一夜にして失った虚無感、生活すべてを他人に頼らなければいけない無力感の中で、自分の手の中でひとつのものができあがり、それを人に喜ばれるという体験は、「自分にもできることがある」という感覚、自尊感情や自己効力感を取り戻すきっかけとなったのだと思います。人が心から満たされるには、自分に向けて差し出されたものを受け取るだけでなく、自分からも何かを差し出しそれを受け取ってもらえることが必要なのでしょう。

また、被災の度合いや物事の受け止め方の差異が大きな断絶となった時期に、ものづくりを行うことで人と一緒にいることができた、言葉を介さずに連帯感を感じることができた、という側面もあったと思います。

「ずっと塞ぎ込んでいた人が、初めて笑顔を見せてくれた」「自室にこもりがちだった人がみるみる元気になって、ほかの人を活動に誘うようになった」——そういったエピソードは数え切れません。ものづくりは確実に、傷ついた人の心を癒やし、回復する一助となっていました。

作品がボランティアや支援団体を通じて販売されお金に替わることでつくり手は自信をつけ、全国のイベントやフェアに呼ばれ交友関係が広がることで、「人生には理不尽な出来事や悲しみばかりでなく、思いがけない嬉しいこともある」と、人生に対する信頼を取り戻していきました。避難所や仮設住宅の中で小さく始まったワークショップが定期的な活動となり、NPOなどの組織となったケースも少なくありません。

ミナ・ペルホネンやふなっしーグッズの縫製も請け負う『南三陸ミシン工房』

毛糸メーカーのサンプル編みなどを行う『東北クロッシェ村』

会社を設立するだけでなく、手芸を楽しめるカフェもオープンした『WATALIS』

こころの回復過程に起きた摩擦について

ただ、活動の性質や規模が変化していく途中には、摩擦もあったと聞きます。

継続して販売するとなると、一定の品質を保つこと、決められた期日までに一定の数を納品することなどが求められます。検品によってつくり直しを求められることも。それを「使う人のことを考えたら当然」と受け止め、腕を磨くことに楽しみを見出す人もいれば、「自分を否定された」と感じ、落ち込んでしまう人もいました。

それは、個々人の性格の違いによるものかもしれませんし、目的意識の違いかもしれません。「失った仕事の代わりにものづくりで稼ごう」という目標があった人と、ただみんなで集まってものづくりをする時間に安らぎを感じていた人とでは、受け止め方に大きな差が出るのは当然です。

あるいは、こころの回復過程の問題だったのかもしれません。

人の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階があり、低次の欲求が満たされることでひとつ上の欲求を持つ、という有名なマズローの欲求五段階説に基づいて考えると、災害時はそれらの欲求がすべて満たされなくなった状態、と言えます。

食べものや寝る場所が確保され、いまいる場所は安全だと感じられるようになり、これまでは顔も名前も知らなかった人たちと、ものづくりを通して仲間になることができた。けれど、未曾有の災害によって大きな傷を負った心は、余震によって、誰かの些細な言葉遣いによって、容易に揺らいでしまう状態だったのでしょう。

社会的欲求(所属と愛の欲求)が充分に満たされないまま、いまの自分より高いレベルの品質やスピードを求められ、「期待に応えられなければこの場所にいられない」「みんなが前に進んでいく中で、自分だけが取り残されていく」という不安を感じてしまったのかもしれません。その人には、「行動や結果に対する承認」ではなく、「存在そのものの承認」がもっと必要だったのかもしれません。

一方で、「これをずっと続けたい、ものづくりで人を元気にしたい」「これを町の産業にしたい」と高い志を持ち邁進していた人が、何かのきっかけで糸がぷつんと切れたように活動をやめてしまった、ということもありました。

被災者の心理的経過は、感覚や感情が鈍麻する「茫然自失期」から、高揚感や連帯感が高まり多少無理をしてでも人のために頑張れる「英雄期」や「ハネムーン期」を経て、長期化によるストレスや被災地に対する関心の薄れを受けて倦怠感に襲われる「幻滅期」に進み、生活の目処が立ち再び頑張ろうと思える「再建期」へ向かう、と言われています。

災害のショックから立ち直ったように見えた姿は、もしかすると「英雄期」「ハネムーン期」に見られる、自分自身のこころの問題から目を背けるための防衛機制という一面もあったのかもしれません。この時期に発した自身の“前向きで力強い言葉”が、「幻滅期」になったときに自分を苦しめる、ということもあったのではないでしょうか。

災害後、目まぐるしく状況が変わる中で、被災者の心理状況も、必要としているものも刻々と変化していきます。しかし、タイミングは人によって異なる上に、「自分の/相手のこころがいま何を求めているか」を把握するのは平常時でも難しいこと。そうしたなかで、お互いに協力しながらひとつの活動を継続していくのは、とても大変なことだったと思います。

まして、こうした手仕事団体のリーダーとなったのは、地元の主婦や、外部から来たボランティアの若者です。「こころのケアを行おう」という明確な意志や目的意識があったわけではなく、目の前の人や状況に必要だと思われることを進めていったら、それがこころの回復に役立っていた、という流れが多かったため、特別こころの問題に詳しかったわけではありません。

ビジネスとしてものづくりに取り組もうと決めた団体、誰もが安心して所属できるコミュニティであることを選んだ団体、チームを2つに分けた団体など、選択はさまざまです。みんなが納得して前向きに決められた、という団体もありますが、移行の過程で深刻なトラブルに発展してしまい、リーダーが大きな葛藤や心労を抱えたケースもありました。

人が集まって新しいことを行う以上、ある程度摩擦が起きるのは当然ですが、臨床心理士などのこころの専門家との協力体制があれば、もう少しスムーズに着地できたケースもあるのでは、と思います。

「誰ひとり取り残さない」方針で活動を続ける『まけないぞう』

震災後、こころの専門家は被災地で懸命に活動されていましたが、自分にこころのケアが必要であると自覚できていない人、ケアを受けることを尻込みする人も多くアプローチが難しかったと聞きます。その一方で、こころのケアを標榜していたわけではないものづくりの活動が結果的にこころを癒し、専門家ではない人が自覚しないままこころのケアに携わる状況になっていたのだと思います。

悩みながら手探りで活動を続けてきた手仕事団体のみなさんには本当に頭が下がります。専門家でも難しいことに取り組んできたのだから悩んで当たり前だし、みなさんが行なってきたのは本当にすごいことなんだと伝えたい、という気持ちで記事を書いてきました。

最終的に喧嘩別れしてしまった人がいたとしても、一緒に笑い合い支え合っていた時間が一時でもあったならそれはとても価値のあることだったし、衝突もまたお互いが自分らしさを取り戻していくために必要なステップだったのかもしれません。また何年か経ったら、それもまた懐かしい思い出になるかもしれません。

そうした感慨を抱きつつ、一方で今後の災害発生時にはこうした個々の現場での教訓が生かされ、分野を横断し専門家と連携できる仕組み、地域で地道な活動を行うリーダーを応援する仕組みができることを願っています。

戸惑いや葛藤も隠さず語ってくれた『やっぺす』のおふたり

お母さんたちと相談しあいながら運営体制を柔軟に変えていった『OCICA』

ライターとして東北に通うなかで悩んだこと

「専門家との連携ができればよかったかもしれない」という振り返りは、ライターである私自身にも言えることです。何の知識もないまま毎回取材をしていましたが、「どうすればいいんだろう?」と戸惑い悩むこともありました。

地震が起きたときのことを話しながら涙が止まらなくなってしまった方や将来への悲観ばかり話す方にどう接したらいいのだろうか。黙って話を聴くことでその人がすっきりできるならいいけれど、周りの人が「この人はいつもこうだから放っといて」と少し疎ましげに話す中で、周囲との関係性も含めて考えると聴かない方が良いのだろうか。

「私たちはこれを実現します!」という具体的な目標を聞くこともあれば、「いいことだけではなく、支援者にされて嫌だったことのようなマイナス面もきちんと書いてほしい」というリクエストを受けることもあったけれど、その気持ちが数カ月後、数年後も同じとは限らない。いつでも検索して読めるウェブマガジンに過去の言葉が残っていることは重荷にならないだろうか。

先に挙げたような人間関係の摩擦や葛藤を乗り越えていった経緯には被災地以外の人にも参考となる大きな知恵が含まれているけれど、人が関わることだからぼかして書いたとしてもいやな思いをする人が出てくるかもしれないし、その地域での人間関係をぎくしゃくさせてしまうかもしれない。でも、うまくいっていることだけを発信する記事は、読者にとってどんな価値があるのだろうか。

そういったことをひとりでぐるぐると考えていましたが、もしも早い段階でこころの専門家と連携できていたら、もっと適切な対応が取れたり、「この現場にはこころのケアが必要だな」と感じたときに専門家とつなぐ役割を果たせたりしたかもしれないと、いまになって思います。

反省点は数えきれませんし、フィードバックがなかっただけでインタビューによっていやな想いをさせてしまったこともあると思いますが、原稿を仕上げて取材先に送ったときに「感動して泣いてしまった」といった返信をいただくことも多く、励まされました。

記事には私自身の感想や考えはあまり差し込まず、取材した団体がどんなふうに始まりどんな軌跡を辿ったのかを順を追って紹介していくスタイルを取っていたので、「なんで自分のことなのに感動するんだろう?」とふしぎな気もしましたが、人は自分の歩みを誰かの言葉を介して表現されることで、自分の体験を肯定的な物語として受け入れることができるのかもしれないな、と思います。ばらばらに見える星々に線を引くことで星座が浮かび上がるように、一つひとつの出来事に意味があったと思えるのかもしれない。そうだとしたらうれしく思います。

「自分たちがやってきたことをうまく伝えられなかったけど、今後はこの記事を見せることにします」と記事を印刷して関係者に配ったり、サイトにリンクを貼ったりしてくださったことも多々あり、第三者視点で活動を記録・発信する意義はある、と感じました。

コロナ禍とこころのレジリエンス

2020年春、新型コロナウイルス感染症の流行により、東北のものづくり団体も大きな影響を受けました。出品を予定していたイベントやフェアは軒並中止となり、商品を卸していた百貨店や小売店も営業を縮小し、多くの団体が行き場のない在庫を抱えることに。みんなで集まることができず、ボランティアをきっかけに毎年訪問してくれていた人たちも来てくれなくなり、寂しさや孤独感を募らせているつくり手も少なくありません。

そうしたなかでも、みんなでインターネットを勉強し、Zoomなどのツールを使って交流を続け、ネットショップでの販売に注力した団体もあります。使い捨てマスクが不足していた時期につくった手づくりマスクが大ヒットして、例年より売上が伸びたという団体も。

「マスクの買い占めや配布を巡って論争が起きてるけど、自分でつくればいいのにね」「うちの町では色んなところで手づくりマスクが販売されてたけど、そういうのがない地域が多いって聞くよ」「まぁつくるのが得意な私たちみたいな人がつくって届ければいいよね、震災のときに助けてもらった恩返しになるといいね」と明るく話すお母さんたちを見て、自分の手で身の回りのものを自分でつくれること、状況に柔軟に対応していくことの大切さを改めて感じました。

また、このコロナ禍では全国の人が“当たり前に続くと思っていた日常が失われる”体験をしたと思います。長年営んできた生業を続けられなくなった人もいれば、暮らしの支えとなっていた趣味や友人との交流が無くなり寂しい思いをしている人、ずっと地元に帰れずにいる人もいます。自粛をめぐる考え方の違いから親しい人と喧嘩してしまった、という人もいるでしょう。感染者や感染リスクの高い職業に就いている人、その家族が差別を受けることも。これらは、震災後に東北の人、特に福島の人が味わってきたことと似ています。

被災者、原発避難者、農家など立場の異なる人をつなぐ『ふくしまオーガニックコットンプロジェクト』

原発事故により大熊町から会津若松に避難した『會空』の庄子ヤウ子さんは、2013年にインタビューをしたとき、「私たちには、一握りの土も残されていないんですよ。足を踏み入れる土がない、立つ場もない恐怖の中で生きていかなくちゃいけない」と話していました。切実さがひたひたと迫ってくる言葉でしたが、地元は好きだけれどそこまで強い愛郷心はない私には、実感を伴った理解はできなかった言葉です。

でも、コロナ禍で一年以上地元に帰れなくなり、ふと「自分が生まれ育ったまち、思い出のあるまちの風景や空気感は、そこにあるだけで自分を肯定してくれるものなんだな」と気づく瞬間がありました。そこに帰れなくなること、風景が様変わりしてしまうこと、昔から自分を知ってくれている人たちと会えなくなること。「立つ場もない恐怖」という言葉の意味が少しだけわかった気がします。

人生の嬉しい記憶、誰かとこころが通い合った瞬間や、何かを成し遂げた達成感などは無意識のうちに積み重なって、人が安心して立つことができる足場に、辛いときに支えてくれるこころの基盤になる。けれど、津波や原発事故はその記憶に暗い影を落とし、縋れるものがなくなってしまった。だから、ものづくりを通して新たな生きがいや関係性を築くことが必要だったーー。そういうことなのかもしれません。

家族心理学者のポーリン・ボスが提唱している「あいまいな喪失(Ambiguous Loss)」という概念があります。東日本大震災でいうと、家族の遺体が見つからず行方不明のままの状態や、故郷はあるけれど原発事故によって帰れない状態、人間関係やコミュニティが以前と変わってしまった状態などが「あいまいな喪失」にあたります。

死別などの決定的な喪失に直面したとき、人は激しい苦痛を味わいますが、きちんと嘆き悲しむことで、プロセスを踏んで喪失を受容していきます。しかし、喪失しているかどうかがあいまいな場合、受容のプロセスは進まず、「終わりのない喪失」が続くといいます。

コロナ禍において、全国の人々が「日常のあいまいな喪失」に直面しています。最初のうちは非日常感によって逆に力が湧いてくるように感じていたけれど、状況の長期化により、倦怠感を感じるようになったという人もいるのではないでしょうか。

震災から10年が経ちましたが、いまだからこそ東北の人々の痛みをただしい重みで受け止め、その軌跡からこころのレジリエンス(困難や逆境をしなやかに跳ね返し、乗り越える力)を学ぶことができるのではないかと思います。

もしよかったら、この機会に「東北マニュファクチュール・ストーリー」の記事や、2019年に出版した書籍『復興から自立への「ものづくり」』に目を通していただけると幸いです。

全住民が避難を余儀なくされた南相馬市小高区で、新たなまちづくりに挑戦する『小高ワーカーズベース』

コロナから話が逸れますが、「地方の女性たちの仕事づくり」や「障害者とデザイン」「高齢者の居場所や生きがいづくり」といった文脈でも、東北の手仕事団体からは大きな示唆を得られると思います。とくに、80代、90代のお母さん・お父さんたちの元気なこと、たくましいことには驚かされました。2035年には一人暮らしの高齢者が841万人になるといいます。手厚い社会保障も重要ですが、「高齢者が自分の力を発揮できるコミュニティ」を地域にあることが大事なのではないでしょうか。

80代以上のお母さんたちがたくさん所属する『コミュニティスペースうみねこ』

2020年取材時で95歳だった『narahato』の戸田さん

更新を終えるにあたって

さて、2012年から取材を続けてきた東北マニュファクチュール・ストーリーですが、この2021年3月をもって更新を一旦停止することになりました。

この間、記事を発信するだけでなく、東北の手仕事団体をお招きしてトークセッションを行なったり、百貨店や企業オフィス、小売店で販売会を開催したり、イベントに出店したり、書籍を出版したり、取材を受けたりと、さまざまな経験をさせていただきました。機会をくださったみなさまに感謝いたします。

開設から2016年まで協賛してくださったジラール・ペルゴのみなさま、2017年から協賛してくださったトリックスターズグループのみなさま、活動を統括してくださった株式会社ニブリックの新飯田稔さん、恩蔵裕子さん、一般社団法人つむぎやの友廣裕一くんとみなさん、ありがとうございました。

なにより、訪問をあたたかく受け入れ、話を聴かせてくださった東北のみなさま、本当にありがとうございました。おもてなしや労り、励ましの気持ちをたくさん受け取り、嬉しい思い出がいくつもできた9年間でした。

取材の際においしい手料理をいただくことも多々ありました

ただ、実を言うとまだ取材できていない団体も多く、少し心残りを感じています。震災から20年後、30年後、取材した団体や東北の手仕事文化がどのような変遷を辿るのか見届けたいし、これまでのように各団体にインタビューをするのではなく、さまざまな分野の専門家と「震災後に始まったものづくり」を多角的に掘り下げることもしたい。

いちライターとして、このテーマを追いつづけていければと思っています。ほかのメディアで、あるいはこのサイト上で。お仕事のご相談や協賛のオファーはいつでもお待ちしています。東北マニュファクチュールの「CONTACT」、または個人サイトのフォームからご連絡ください。

また、東北の手仕事品を販売するイベント等も引き続き行なっていきたいと思いますので、機会があればご相談いただければ幸いです。

9年取材を続けるなかで、私自身の身の回りのものも東北の手仕事品で彩られるようになりました。ストールに、バッグに、アクセサリーに、ポーチに、インテリア雑貨に、ぬいぐるみに、生活用品に。どんな人がどんな想いでつくったのかを知っているものに囲まれていると、何だか見えない力で守られているような、しらずしらず気持ちが癒やされているような、「私も手を抜いた仕事はできないな」と背筋が伸びるような気がします。

民藝運動を起こした柳宗悦は、著書『手仕事の日本』の中で、東北を日本らしいものづくりが豊かに残った手仕事の国と呼ぶとともに、

“そもそも手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。”

と語っています。本当にそのとおりだと思います。

未曾有の震災から立ち上がった人々による“心の仕事”。この魅力を全国の人に届けるお手伝いを、これからも微力ながら続けていきたいと思います。

*ここでは言及しきれなかったことも多々あります。興味を持っていただけたら、こちらの記事をご覧ください。

・震災後に手仕事が始まった理由と分類
http://www.tohoku-manufacture.jp/story/058_2203.html

・ライターとして東北の手仕事を取材しつづけるなかで感じた葛藤や学びについて
https://note.com/hidaemi/n/nf4b5b3d11ab1

・手仕事が心や人間関係の再生にどう作用したのか、作業療法士と考えたトークセッションの書き起こし
https://note.com/hidaemi/n/nf9ae217df629

2021.3.9