物語

避難所や仮設住宅でたくさんの手仕事が始まったことは、東日本大震災の特徴と言えます。しかし、1995年の阪神・淡路大震災時も、数えるほどですが手仕事を媒介にした復興支援活動が行われていました。そのひとつが、被災地NGO恊働センターによる『まけないぞう』づくりです。活動は東日本大震災の被災地にも引き継がれ、販売総数は26万頭を超えました。「まけないぞうは単なる商品ではなく、被災した女性たちと応援する人々をつなぐメッセンジャーなんです」ーーそう話す同センターの増島智子さんに、まけないぞうの誕生からこれまでを聞きました。

仮設住宅での孤独死が問題となった阪神・淡路大震災

233名。阪神・淡路大震災発災後の5年間で、仮設住宅において発生した孤独死の数です。この“孤独死”の前には「孤独な生」があります。住み慣れた地域から遠い場所に仮設住宅が建てられ、知らない人に囲まれた暮らしの中で孤立してしまう人が多く出てしまいました。危機感を抱いた被災地NGO恊働センターは、「孤独な生」を回避するため、コミュニティをつくるために仮設住宅の集会所でできる手仕事を考案します。それがまけないぞうでした。

増島さん:まけないぞうづくりが始まったのは1997年です。その年の1月にロシア船籍のタンカー・ナホトカ号が座礁し、重油が流出して日本海沿岸に漂着する事故がありました。重油を拭うために全国から膨大な数のタオルが届いたことからヒントを得て、「1本のタオル運動」を立ち上げたんです。新品のタオルを送っていただき、それを使って仮設住宅の女性たちに何かをつくってもらおうという企画です。

最初は雑巾を想定していたのですが、当時西宮で活動していた団体の方から、仮設住宅に住むおばあちゃんが「タオルでこんなこともできるよ」とぞうの形をつくって見せてくれたと聞いて、このぞうをつくってもらおうということになりました。

1本のタオルを丸ごと使い、詰め物などをせずに形をつくるまけないぞう。その顔はつくり手に似る傾向があるそうで、集会所に集まった女性たちは「鼻が曲がっているのはあんたの性格が曲がっているからよ」などと軽口を叩き、笑いながらまけないぞうづくりに励んだといいます。

「震災に負けない」という想いが込められたまけないぞうは、多いときで月に1万頭が売れるほどの人気商品に。まけないぞうづくりを通して、被災した女性たちは生きがいを取り戻し、新たな人間関係を築いていきました。

神戸のまけないぞうづくりはいまも続いています

発災直後から、手仕事は必要とされていた

2011年の東日本大震災時、被災地NGO恊働センターは発災2週間後から岩手県に入り、物資の運搬や足湯の提供といった活動をしながら、まけないぞうづくりも提案していきました。

増島さん:最初は「水や食料がないこの時期に、悠長に手仕事をしましょうなんて言っていいのだろうか」と迷ったのですが、実際に裁縫箱をお渡しすると、おばあちゃんたちが「2週間ぶりに針と糸を持てた」ととても喜んでくれたんです。悲しみや不安で頭がいっぱいになっていたけど、まけないぞうづくりに夢中になって久しぶりに津波のことを忘れられた、みんなで笑って話せて今日は夜よく眠れそうだ、って。この時期だからこそ心のケアとなるものが必要だったんだと気づきました。

印象に残っている出来事として、増島さんは大槌町の避難所で出会った女性の話を教えてくれました。

増島さん:まけないぞうをつくるグループの輪に入らずひとりで黙々と手を動かしていた方だったんですが、仮設住宅に移った後に「あのときぞうに救われたんだ」と打ち明けてくれたんです。「ひとりでいたのにどうして?」と不思議に思ったんですが、「ひとりでいられたことがよかったんだ」って。大槌は大規模な火災が起きた地域で、その方のお孫さんは津波で流され、黒焦げで見つかったそうです。「抱きしめてあげたかったけど、それもできなかった……」と声を詰まらせていました。

そういうところに取材が来て、最初はその方も答えていたけれど途中で嫌になってしまったんですね。「黙々とぞうをつくることで人を寄せ付けないようにしていた、ぞうがガードしてくれた」と言ってくださいました。私たちはまけないぞうをコミュニティづくりのきっかけと捉えていたけど、そういう役割も意図せず担っていたんだ、と驚きました。

まけないぞうの販売価格は400円。そのうち100円がつくり手の収入となり、50円が被災地の復興基金として使われます

50か国以上に旅立っていったまけないぞう

被災地NGO恊働センターは内陸部の遠野に拠点を置き、増島さんはボランティアと共に岩手・宮城・福島各地の避難所や仮設住宅を回りました。特に、遠野の手芸サークル『ふきのとうの会』のメンバーは、「力仕事はできない女性の私たちでも人の役に立てるんだ」と喜んで、毎日交替でまけないぞうを教えに行ってくれたといいます。

ふきのとうの会メンバーによる制作指導

増島さん:ふきのとうの会の方が、陸前高田の仮設住宅で調子の悪そうな女性と出会い、まけないぞうに引き入れてくれたんです。その女性は旦那さんと一緒に津波で流されて、ご自身は流木か何かに掴まることができて助かったけど、気を失う前に沈んでいく旦那さんの手を見たそうです。

最初は「なんで私、こんなところでこんなぞうをつくっているんだろう」と呆然とされていたのですが、ぞうをつくっているうちに少しずつ心が癒やされてきたのか、笑顔が増えてきて。ある日、とびきりの笑顔で仮設のお部屋に招き入れてくれて、亡くなった旦那さんのことも話してくれました。

東北3県以外でも、津波の被害を受けた千葉県の旭市、原発避難者が避難していた栃木県や山形県にも活動は広がり、ピーク時にはつくり手の数は100人に。それだけ手仕事が必要とされていたのでしょう。

増島さん:元々、東北には冬に手仕事をする文化があるので器用な人が多かったし、仮設暮らしではすることがないんですよね。部屋中にまけないぞうが溢れていたおばあちゃんもいました。「目を入れると命が入る気がする」と愛着を感じてくださって、「この子を連れていかないで」なんて言われることも。

ボランティアさんに何かしてもらったときは、おばあちゃんたちはまけないぞうをお礼に贈っていました。お世話になるばかりだと辛くなっちゃうけど、自分にも相手に返せるものがあると思うと力が湧いてくるでしょう。学生さんたちも、「ボランティアに行く度にぞうが増えていく」と嬉しそうにしていました。
東京・銀座にあるペインクリニック『青木クリニック』の院長、青木正美さんを中心に、まけないぞうの応援団『makenaizone』も誕生しました。まけないぞうの販売や情報発信を行うコミュニティです。

makenaizoneウェブサイト(http://www.makenaizone.jp/

青木さん:被災地NGO恊働センター前代表の村井さんとは以前から友人同士で、ある日まけないぞう50個が入ったダンボール箱が届いたんです。手紙も何もなかったけど、「東北でもまけないぞうをつくっていく」というメッセージだということが伝わってきました。

その場には患者さんが数人いたんですが、箱を開けたら「わぁ、可愛い!」と歓声が上がったんです。その瞬間に、まけないぞうを応援していこうと決めました。あの当時、東京では多くの人が「東北の痛みを分かち合いたいけど、自分にはできることが何もない」と無力感に苛まれていたんですね。でも、まけないぞうを販売すること、購入することで役に立てるじゃないか、と。現地に行かなくてもできることがあるということが、痛みを抱えた患者さんの励みになりました。

青木クリニック内のまけないぞうコーナー

makenaizoneでは、版画家・岩崎みわ子さんの手刷り版画カードを添えて販売しています

「まけるな」というメッセージを内包するまけないぞう。闘病中の人へのお見舞いや、卒業生へのエールとして贈られることも多いといいます。

青木さん:淑徳大学のある教授は、毎年看護学科の卒業生にまけないぞうを渡しています。人生には予期せぬ出来事がつきもので、落ち込むことや立ち止まることもあるかもしれない、そういうときにまけないぞうの精神を思い出してほしい、というメッセージを添えて。中学受験の塾生に贈っている先生や、近隣の小学校の卒業生に贈っている人もいます。もらってすぐはわからなくても、どこかで躓いたときにまけないぞうに込められた意味が伝わるのではないでしょうか。

ハーフサイズで可愛い「子ぞう」300円

別のタオルをかけられる「リングぞう」(500円)

支え合いの輪は海外にも広がり、まけないぞうは50か国を超える国々に旅立っていきました。makenaizoneでは、購入した人の声を冊子にまとめ、つくり手に届けています。

増島さん:みなさん、冊子をとても楽しみにされています。「私のかわりにぞうが色んな国に行ってくれるのよ」「私たちのつくったぞうがこんなに喜ばれてるのね」って。「積み重ねてきたものをすべて流されてしまった」と落ち込まれていた方も、「うつになっている暇がないわね、まけないぞうをつくらないと」と元気を出してくれました。まけないぞうを通してたくさんの方とつながっているという実感が、気持ちを支えてくれるんですね。

学校で学んだ「福祉の原則」とのギャップから

日本で「ボランティア」という概念が定着したのは、阪神・淡路大震災がきっかけです。被災地NGO恊働センターも、ボランティア初心者の市民が集まって活動していくうちに組織になっていきました。

増島さんは震災が起きた1995年1月に避難所でボランティアをした後、4月に福祉の専門学校に入学。学校生活に慣れた翌年春にボランティアを再開し、周囲に心配されるほど神戸に通い詰めたといいます。

増島さん:学校で学んだ「福祉とは誰もが幸福になること」という原則と、現場で見聞きすることの間に大きなギャップがあったんです。仮設住宅の狭い部屋で孤独死するというのは、「健康で文化的な最低限度の生活」と言えるでしょうか。パーキンソン病を患ったお父さんから「殺してくれ」と頼まれ、ずっと介護をしてきた息子さんが嘱託殺人を犯してしまった事件もありました。お父さんは顔を這うゴキブリを払う力もなく、「仮設住宅は人間の住むところではない」と話していたそうです。

どうしていつも被災者が置き去りにされるんだろう、いちばん辛い状況にある人が顧みられないんだろう。そんな憤りを、ずっと持ち続けています。

東日本大震災後、全国各地で災害が続き、その度に被災地NGO協恊働センターは支援活動を行ってきました。増島さんは現在、令和2年7月豪雨で被害を受けた熊本で活動しながら、年に数回、東北へ通っています。
増島さん:東北は仮設住宅からの転居が進んで、傍目からは「もう復興は終わった」と見えるかもしれません。でも、コミュニティは再びバラバラになりました。ご自宅を再建した陸前高田の方は「周囲の7割が空き地で寂しい」と、復興住宅に転居された釜石の方は「ご近所づきあいもないし土いじりもできない。重い鉄の扉を閉めたら隣の人の気配もわからない。牢屋に入れられたみたい」と話していました。コミュニティづくりやこころのケアはいまも必要なんです。

2020年現在、大槌、釜石、大船渡、陸前高田、遠野、石巻に40人程のつくり手がいます

つくり手の個性が出ることを大切にしているため規格を統一することが難しく、単価も低いまけないぞうは百貨店などでの販売に向きません。makenaizoneをはじめとする個人の想いに支えられてきましたが、売上は年々減少しているそう。それでも、増島さんは「最後の1人まで続ける」と力強く話します。

増島さん:まけないぞうはただの商品ではなく、被災地からのメッセンジャーなんです。熊本で被災した方にもまけないぞうをお配りして、双方からとても喜ばれています。タオルを送ってくれる人がいて、つくる人がいて、受け取る人がいて、応援してくれる人がいて。その支え合いの輪を広げるツール、人と人をつなぐツールとして、これからも続けていきたい。

来年で、東日本大震災から10年になります。あれからさまざまな災害があって、普段は東北の被災地を思うことは難しいかもしれないけど、3月11日には思い出してほしい。できれば、まけないぞうを手に取っていただけたら、なお嬉しいです。「忘れられていない」と感じられることが、つくり手のみなさんの励みになるから。

■被災地NGO恊働センター
ウェブサイト:http://ngo-kyodo.org/
Facebook:https://www.facebook.com/KOBE1.17NGO

<商品の購入方法>
まけないぞうオンラインショップ(http://makenaizou.cart.fc2.com/)のほか、東京・銀座にある青木クリニック(http://www.pain.ne.jp/aoki/)でも販売しています。また、以下の宛先にメールや電話で問い合わせて購入することも可能です。

被災地NGO恊働センター まけないぞう事業部
〒652-0801 神戸市兵庫区中道通2-1-10
TEL:078-574-0701 FAX:078-574-0702
E-mail:info@ngo-kyodo.org

※取材はオンラインで行い、写真は一部を除き被災地恊働NGOセンターから提供していただきました。

2020.11.7