物語

「命も助かって、たくさんの人にお世話になったから、少しでも恩返し……じゃないか、自分が一番楽しんでるんだから」。新地町で暮らす女性6人による手芸グループ『うみみどり』。和気あいあいと手芸を楽しみながら、地域の交流を深めるイベントを開催することも。大きな悲しみを乗り越えて花のように笑う、代表の村上美保子さんにお話を伺いました。

線を引かず、どんな人も受け入れた

朝日館。新地町釣師浜、海のすぐそばにあった旅館の名前です。村上さんはここの女将として毎日朝から晩まで働いていましたが、旅館は津波で全壊し、130年の歴史に幕を下ろしました。

村上さん:いきなりすることがなくなって途方に暮れていたときに、横浜の手芸グループの方がアクリル毛糸と編み棒、エコたわしの編み図を送ってくれたんです。「良かったら編んでみませんか」って。私、それに飛びついたの。

同じ仮設住宅に住むおばあちゃんたちのことも心配だったんです。秋冬になって寒いから部屋に籠りがちになっていて、ニュースでも「仮設住宅で高齢者が孤独死」なんて騒がれていたから。「みんなでエコたわしを編もう、販売して温泉に行こう!」って呼びかけて、毎週集会所で編み物するようになりました。

製作したエコたわしを買ってほしいとSNSやブログで呼びかけたところ、世界中から「買います!」と声が上がり、千個以上のエコたわしが旅立っていったそう。売上はすべて、仮設住宅のレクリエーションに使いました。

村上さん:普通はつくり手に「あなたは5個つくったからいくらね」と分配するでしょう。私は最初から「渡さない!」って言ったの。だってね、編むのが早い人もいれば、不器用な人もいるでしょう。手が痛くて中々編めない人だっているはず。編むのが目的じゃなくてみんなで集まるのが目的だったから、誰がいくつ編んだのかは数えなかった。その代わり、売上でいろんなことしましたよ。温泉も行ったし、ビンゴ大会に餅つき、クリスマス会に芋煮会。女子会みたいに、わいわいと。

そんな様子をブログで発信したところ、村上さんのところには次々とワークショップを提供したいという申し出が舞い込むように。ツリークライミングにポニー乗馬、布団屋さんの綿入れ講座にみつろうキャンドルのワークショップ。村上さんはそれらをひとつも断らず、全て受け入れました。

よく、こうしたワークショップは受け入れ側もコーディネートが大変、という話を聞きますが、女将業で鍛えられていた村上さんにとっては全く苦ではなかったといいます。

村上さん:楽しそうだからって言ってどんどんメンバーが増えていってね。「ほかの仮設に住んでるけど遊びにいきたい」「おいでおいで!」「編み物は苦手だけど仲間に入れてほしい」「おいでおいで!」「自分のものを編みたい」「おいでおいで!」って。ワークショップを断らなかったのと同じで、一切線を引きませんでした。みんなが仮設住宅を出たときにエコたわし編み隊は解散したけど、いまでもメンバーに会うと「あの頃は楽しかったねぇ!」って言われます。

津波に負けず芽を出し花を咲かせたウミミドリ

2012年の秋、仮設住宅の住民から「編み物だけじゃなく裁縫もやりたい」という声が挙がり、『ふんばろう東日本支援プロジェクト』から中古ミシンを10台譲り受けました。同時期に古物商からトラック一台分の古着物を譲り受け、着物リメイク品もつくるように。メンバーはエコたわし編み隊よりも若く、同じ団地に家を建てたことから、活動は仮設住宅を出てからも続きました。人数は6人、グループ名は『うみみどり』です。

村上さん:2013年頃にね、被災した新地町の埒浜で絶滅危惧種のウミミドリが見つかったというニュースが聞こえてきたの。ようく見ないとわからないほど小さな、可愛らしい花。私たち全員、家は全て津波で流され更地になりました。津波に負けずに芽を出し花を咲かせたウミミドリのように私たちも頑張ろう、と言って名前をもらいました。

『うみみどり』の看板商品は、会津木綿に刺し子をしたマカロンポーチです。以前東北マニュファクチュール・ストーリーでも紹介した『ふんばろうものづくりプロジェクト』の亘理孝子さんからつくり方を教わり、狭い仮設住宅の中でも場所を取らずにつくれることからすっかり気に入ってしまったそう。

最初は古着物を使っていましたが、亘理さんからの「うみみどりを象徴するようなものをつくったら?」というアドバイスを受けて、会津木綿を使い、花刺し子をあしらうようになりました。ウミミドリのような可愛らしい小花模様です。

もうひとつ、日本手ぬぐいでできた三角巾のような帽子「ちゃっぷ」も、マカロンポーチと並ぶ看板商品です。ハサミを入れず、手ぬぐいを折り畳んで留めるだけ。料理をするときや何か作業をするときすぐに被れて手洗いもできるので便利なのだそう。「これはいいね」とイベントで販売したところ、すぐに完売。それ以来、ずっとつくり続けています。

村上さん:看板商品はあるけど、基本的にはみんな好きなものを好きなようにつくっているんですよ。私たち、仕事じゃなくて趣味でやってるし、つくりたいものがたくさんあるから。6人それぞれ個性があって、誰かが新しいものをつくると刺激になるの。私も頑張ろうって燃えるのね。

値付けも自分でして、売れたら8割は自分に、2割は『うみみどり』に入る仕組み。遠方のイベントに参加するときは、その2割を溜めたお金から交通費や食費を捻出します。東京にももう何度行ったかな。「今度どこどこでやるイベントに呼ばれたんだけど行く?」って聞くと、みんな「行く行く!」って即答してくれるんです。

会津木綿の動物お手玉

会津木綿の鍋つかみ

手織りのストールと帽子

「大した利益にならなくてもいいの、私たち好きなものをつくるだけで満足だし、みんなでどこか行くのが楽しいから」「だから長続きするんだよねぇ」。そう言って、『うみみどり』のみなさんは楽しそうに笑い合います。

左から時計回りに佐々木和子さん、横山みよしさん、村上美保子さん、目黒敏子さん

ものづくりのほか、『うみみどり』では地域の交流イベントも定期的に開催しています。エコたわし編み隊のおばあちゃんたちが「仮設は楽しかったけど、いま住んでいるところでは交流がなくて」と言うのを聞き企画したそう。流し素麺にヨーヨー釣り、織物体験会にハーバリウムワークショップ。最初は参加者も10人ほどでしたが、いまでは安定して40人ほどが来るようになり、80人を超えることもあるといいます。

村上さん:プログラムはほとんど私が勝手に決めて「これやろう!」って言うんだけど、『うみみどり』のみんなは「うん、やろう!」って言ってくれるの。100%サポートしてくれるっていう信頼があるから好き勝手できるんですよ。私ひとりじゃ何にもできない。手先が器用な人、お料理上手な人、よく気が利く人、盛り上げ上手な人。震災前は365日働いていてあんまりご近所付き合いできなかったけど、避難所や仮設住宅の暮らしを通して素晴らしい仲間に恵まれました。みんながいてこそ、なんです。

娘を亡くした経験を、ようやく意味のあるものと思うことができた

震災後、村上さんはものづくり以外にもさまざまな活動を行ってきました。地元の漁師たちに聞いた話を元に紙芝居をつくったり、震災の語り部として全国各地で470回も講演をしたり、慰霊・鎮魂のための巡礼地を選定して発信する『東北お遍路プロジェクト』を進めたり。家も旅館も流されながら、なぜすぐに前を向きそうした活動に注力できたのでしょうか。

村上さん原作の紙芝居『命の次に大切なもの』

村上さん:私はね、娘を癌で亡くしているんですよ。震災の9年前のことで、娘はまだ27歳でした。あの辛さに比べたら、家や旅館が流されたことなんてどうってことない、命さえあればいいと、家族全員思いました。震災の日、私たち夫婦は一緒に逃げて、夜に息子と合流できたんです。3人で抱き合って号泣しました。あんなに嬉しかったことはありません。これからのことを話し合って、「今日から村上家の第二章をはじめよう」と顔を上げました。

その日、村上さんたちが泊まったのは町役場の一室でした。そこにはひっきりなしに、家族を捜す人たちがやってきたといいます。悲痛な声で「私の家族を見かけませんでしたか」と尋ねて回る人、逃げる途中に奥さんの手を離してしまい、傷だらけになりながら「うちのやつを探しにいってくれ」と懇願する人。村上さんは、どれほどの苦しみだろうと心を痛めたといいます。

村上さん:娘は亡くなる一年前に先生から「もう助かる方法はないです」と言われていたから、私は病院に向かう車の中で「いい? 絶対にその日は来るんだからね、覚悟しなさいよ、覚悟しなさい」って自分に言い聞かせていたんです。それでも娘が亡くなったときはね……。今回の震災では、朝元気に出て行った人がその日帰らなかったわけでしょう。突然別れがやってきたわけでしょう。それがどれだけ辛いことか。

娘さんを亡くした後、村上さんは慰めの言葉が耳に入らなかったと振り返ります。「悲しんでばかりいると娘さんが浮かばれないよ」と言われ、「子どもの死を親が悲しまなくてどうするの、悲しむぐらいさせてよ」と、口には出さずに心の中で涙したことも。だから、津波で家族を亡くした人の気持ちが痛いほどわかったといいます。

村上さん:みんな私が娘を亡くしたことを知っていたから、気持ちを打ち明けてくれたんです。仮設住宅でエコたわしを編みながら、ぽつりぽつりと、「あのときの津波でね……」って。私はそれを隣で黙って聞きました。何も言えることなんてないから、一緒に泣いて、背中をさすって。

仮設住宅を出てしばらくしてから、「あの頃は一人でいると涙ばっかり零れたけど、エコたわしを編みながらこの色とこの色を組み合わせたらどうだろう?と考えることで気が紛れた、自分を立て直す力になった」と言われたことがあります。それを聞いて私、本当に嬉しくて。やってよかった、と思いました。

娘を亡くしてからずっと、「娘の死さえなければ」と嘆いてきました。でも、ようやく娘を喪った経験を意味のあることと思えたんです。娘に、「あなたが経験させてくれたから、お母さんはみんなの気持ちがちょっとだけわかるよ。あの経験は無駄じゃなかったって思えたよ。だから、あなたに感謝だね。今まで悲しむばっかりでごめんね」と語りかけました。

大切な人を喪った人にとって、下手な慰めの言葉は逆に気持ちを乱す原因になることがあります。何も言わずに聞いてくれる人の存在が、黙々と手を動かせるものづくりが、明日が楽しみになるような活動が、どれだけ救いになったことでしょうか。村上さんが懐深く人を受け入れてきた理由がよくわかりました。

村上さん:命も助かって、たくさんの人にお世話になったから、少しでも恩返し……じゃないか、自分が一番楽しんでるんだから。これが苦しみながら頑張っているなら恩返しって言えるかもしれないけど。ものづくりも色んな活動も、全部自分がやりたくてやっているんです。みんなで元気にわいわい、楽しく過ごしていけたらいいなと思っています。

● うみみどり
HP:http://madams-collection.net/umimidori/
村上さんブログ:https://asahikanok.exblog.jp/

※購入方法:商品は、毎月山元町の普門寺で開かれる『てらマルシェ』、毎年3月に東京で開かれる『東北マダムズコレクション作品展』で購入することができます。また、今年9月の『浅草手しごと市』にも出品予定です。

2018.6.27