物語

東北マニュファクチュール・ストーリーでは、震災後に東北で生まれたものづくりを紹介してきました。これまでに訪問した現場は70以上。どの現場でも、製品の裏にかけがえのない物語があることを知りました。その物語は、現在進行形で綴られているものばかりです。
以前訪れた団体は、いまどんな風に変わっているでしょうか。私たちは、取材後に変化があった団体を取材し、「その後」として記事にまとめていくことにしました。今回は、『マーマメイド』のその後をお届けします。

漁網100%ミサンガとぼっぽら食堂


『マーマメイド』は、牡鹿漁業協同組合女性部の有志で構成される団体です。震災前、女性たちは鮎川浜で牡蠣の殻剥きやワカメの加工といった仕事をしていましたが、津波により浜は壊滅的な被害を受け、水産加工場も失われました。しばらくは漁業再開の目処も立たなかったため、女性たちは自分たちの手で収入を得ようと立ち上がります。そうして生まれたのが漁網100%ミサンガでした。(詳しくはこちらをご覧ください!)

2012年7月には、ミサンガを販売することで得た収益を元に、『ぼっぽら食堂』という弁当屋を始めました。地元の美味しい素材を使ったお弁当は工事関係者に大好評。最初は週2回だった営業もお客さんの声に応える形で週6回になり、順調に売上を伸ばしてきました。

そんなぼっぽら食堂が営業を終了したのは、2016年12月のこと。土地の嵩上げ工事に伴い、建物を解体しなければならなくなったのです。解体前に開かれた店じまいツアーに参加し、メンバーに5年間の軌跡と今後の展望を伺いました。

最高は169食


ツアーが開かれたのは、小雪がちらつく1月中旬。マーマメイドミサンガやぼっぽら食堂の立ち上げを支援した『一般社団法人つむぎや』の友廣裕一さん・多田知弥さん、当時学生インターンとして建築に携わった森田曜光さんと一緒に鮎川浜へ向かうと、ぼっぽら食堂の建物内では、チエさん、ヒロミさん、キヨミさん、ヒロコさん、モリコさんがお茶菓子を用意して待っていてくれました。

「4年半おつかれさまでした。途中で辞めてしまおうと思ったことはありませんでしたか?」と聞くと、「それは全然ありません」「なかったねぇ」「面白かったし」「うん、楽しかった!」と堰を切ったように語り出したみなさん。もはや誰が何を話しているのかわかりません。

「うちら強気の弁当屋だからな、お客さんに電話かけてもんな。“今日やってんだけどもちろん来るよな”って」
「文句は許さねえし、ヤクザみてえな弁当屋だったよな」
「でも色んな人が来てくれたよね」
「缶ジュースさんとか韓流スターとかあだ名つけてね」
「インド人も来たな、ナマステーって。肉を使わず作ってやったんだよな」

ちょっと口が悪いお母さんたちですが、お客さんもその距離の近さや豪放さを気に入り、楽しんでいた様子。地元に戻った工事関係者からお土産が送られてくることもあったといいます。

リーダーのチエさんが初期の頃つけていた数冊の日誌を見せてもらうと、そこには「ぼっぽらは真夏のように暑いです。この調子だとビキニで弁当つくるのも時間の問題です」「安部姉妹、ぶっ通しの連続出勤ご苦労様です。明日はお休みあげるから民宿に専念してね」と、その日の感想やお客さんとのやりとり、メンバーへのメッセージが書かれていました。楽しみながら、お互いをねぎらいながら仕事してきたことが伝わってきます。

「若いのだけでもだめだし、年寄りだけでもだめだし、みんな揃ってたのが良かったんだな。こんな女ばっかの職場で喧嘩もせずやってきたのはすごいと思うよ」
「いや喧嘩はしたよね」
「したけど、後腐れなかったのがよかったよね」
「みんな思ったことハッキリ言うもんなぁ」

最初はつむぎやのメンバーが経理を担当していましたが、途中から自分たちだけで回せるように。食材が少ないときは山にワラビを採りに行ったり、自分のところで捕れた魚を持っていったりと、困難やトラブルも協力して乗り切ったそう。一番多い日で169食分のお弁当が売れたといいます。

しかし、2016 年になると工事も一段落してきて工事関係者が少なくなり、ほかの飲食店や小売店も営業を再開しはじめたため、お弁当需要は減ってきました。お店周辺の土地を6m程度嵩上げするという工事が決まったのはそんな折のこと。それでもお母さんたちは市役所に問い合わせるなどして、移転先となる土地や物件を探し、続ける道を探ったそう。しかし、現在の鮎川浜には適した建物がなく、ぼっぽら食堂は閉店を余儀なくされました。

でも、活動する場がゼロになったわけではありません。2016年2月、鮎川浜の漁港に牡鹿漁業協同組合の『おしか番屋』ができました。漁師が漁の前後に休んだり、捕れた魚を二次加工したり、地域内外の人々が交流したりと、さまざまな使い方ができる施設です。ぼっぽら食堂と同じ形での営業はできませんが、大口の注文が入ったときにケータリングを行ったり、朝市を開いたりといった展開を考えているそうです。

つむぎやが全体のコーディネート・プロジェクトマネジメントを行った『おしか番屋』。完成後は牡鹿漁業協同組合の手で運営されています

ともあれ、今回でマーマメイドは一旦解散です。夜は民宿の広間を借り、おつかれさま会が開かれました。カラオケの締めは『妖怪人間ベム』。自らを「妖怪」と呼んでいたぼっぽらのお母さんたち。「ようやく人間に戻れるわ」と笑い合っていました。

プロジェクトの「終わらせ方」を考える

ツアーに参加し、楽しそうに笑い合うぼっぽらのお母さんたちの姿を見て感じたのは、「いい終わり方だな」ということでした。

震災から6年が経ち、活動を終了するプロジェクトや事業が増えていますが、それはどちらかというとネガティブな捉えられ方をしているような気がします。しかし、6年という時間が流れれば、地域の状況も、そこで暮らす人のニーズも変わります。必要だったものが必要ではなくなることも当然あるでしょう。役割を終えたものが活動を終了するのは、自然なことではないでしょうか。

とは言え、関わった人たち全員が納得する形でプロジェクトを終わらせるのは、中々に大変なことのように思えます。続けたい人と終わらせたい人で意見が分かれ、最後に揉めてしまった。そんな話も耳にします。ぼっぽらの場合はどんなことに注意したのか、どんなことを心掛けたのかについて、つむぎやの友廣さん、多田さんに質問してみました。

左から友廣さん、チエさん、森田さん、モリコさん、ヒロコさん、ヒロミさん、多田さん、キョウコさん

——終了することについて、お母さんたちと意見が衝突したり揉めたりはしなかったのでしょうか。

友廣さん:そもそも、「嵩上げ地域だからいつか立ち退かなくちゃいけない」「そのときに鮎川浜がどんな状態になっているか、移転先があるかはわからない」ということは織り込み済で始めていました。

それに、開店からしばらく経った後は、ほとんど僕らの手を離れていたんですよ。日々の業務はお母さんたちで回していて、こっちで行っていたのは年度末の決算程度。僕らが「支援者」で、お母さんたちが「受益者」という関係ではなく、基本的にはお母さんたちが自分でやって僕らは足りないところを補うという関係でずっとやってきたから、今回も特に問題はなくて。もし、「支援」の関係だったら、「何とかしてよ」と迫られたりしていたかもしれませんね。
 ——公平な関係ですね。そういう関係を目指しつつも、「支援者」「受益者」の関係を抜け出せなかった、というプロジェクトって多い気がします。

多田さん:僕は最初にお母さんたちに言われてグサッときたことがあって。ぼっぽらを建てるとき、期日に間に合わせようと急いで色んなことを進めていたんですが、お母さんたちの意思決定や行動が遅かったんですよね。「こっちがこれだけやっているのに、この人たちはなんでもっと協力してくれないんだろう」とイライラしてしまい語気を強めて迫ったら、向こうも語気強く「だったら俺らを雇ってくれ」と返してきました。

「先々まで日々の給料を保証してくれるなら言われた通りにやるけど、結果に責任を持つのは自分たちなんだから、納得して決めたい」と。地域に住んでいない僕らは、事業が失敗したとしてもそこまで痛手はありません。でも、お母さんたちはずっとこの浜で暮らさなくちゃいけない。下手なことをしたら、ずっと失敗したことを言われつづけてしまうわけです。それは慎重になりますよね。

個人的には、そうしてぶつかったことが大きなターニングポイントだったな、と思います。お母さんたちが事業の主体となるなら、決めるプロセスは本人に委ねないといけない。そう考えて、待てるようになりました。それに、相手が何を考えているかは、お互いに言わないと、聞かないとわからない、とも。
 ——「支援者」の立場だと、ぶつかることを避けて、「その分自分が頑張ればいい」という方向に努力してしまいそうですよね。

多田さん:特に震災直後だと、「大変な想いをした人たちだから」と過度に尽くしてしまったり、気を遣いすぎてしまったりしますよね。それが溜まっていくと、「私はこんなにやってあげているのにわかってくれない」という気持ちになって、関係性もぎくしゃくしてしまうと思います。

友廣さん:こちら側が何でもやりすぎてしまうことで、本来相手が持っている伸びしろを奪ってしまうということもあると思います。自分の仕事の中で、できないと困ること、できるようになると便利なことがあったら、努力しますよね。やってみた上でそれでも難しいとなればこちらも協力しますが、全部先回りして「できないことは僕らがやるから大丈夫」というのは違うんじゃないか、と。

——苦手だと思っていた経理をやってみたら意外と向いていて別の仕事にも活かせたり、パソコンをいじってみたらメールが楽しくなっちゃったり。そんな可能性もありますもんね。

友廣さん:期待値コントロールは重要ですね。「僕らが支えます!」とか、「これを産業に!」とか、どうなるかわからない大きなこと、責任が持てないようなことは言わない。相手の期待値を上げすぎず、背負いすぎず、自分たちにできることや状況を包み隠さず伝える。そういうコミュニケーションが大事なんじゃないかな。

それと、僕らが最初から気をつけていたのは、僕ら自身がお母さんたちに依存しないようにしよう、ということ。お母さんたちがこの仕事を必要としなくなったときに、僕らが東北の仕事だけで食わせてもらっている状態だったら困ってしまう。そうならないように、意識的にほかの仕事もしていました。
 ——助成金を使うことが悪いわけではありませんが、支援者の人の給料を確保するためにずっと助成金を貰いつづけている、という団体もありますよね。

多田さん:個人的には、助成金は劇薬だと思っています。価値を生み出さなくてもお金が回っちゃったら、それでいいと思ってしまいがちですよね。僕らも最初の頃は助成金をいただいていましたが、これは危険だなと思いました。

「東北で被災した人たちと新しい事業を始めます」というとみんな好意的に見てくれるし、「コミュニティが生まれた」といった定性的な情報で納得されがちです。それに自分たちも満足してしまいそうになるのが危ないんです。だから僕は、定量的な評価を重視するようにしていました。助成金も含めて投資した額に対して、どれだけの価値を生み出せたか。

ぼっぽらの場合は、建物の建設に7〜8百万円のお金が掛かっていて、それに対して4年半の間にお母さんたちは3〜4千万円稼ぐことができました。約4〜5倍と考えると、まぁセーフかな、と。たとえばそれがトントンだったりしたら、直接お母さんたちにお金を配ったほうがいいんじゃないか、という話になりますから。

−−数字をきちんと追いかける、ということですね。

多田さん:建物を解体するのにも法人を清算するのにもお金が掛かるから、最初からその分は手をつけずに残していました。そういうことを知らない人は案外多いかもしれません。法人の清算に掛かる費用は数万円だけど、自分たちでやるのは大変だから行政書士を頼むことになります。そうすると、更に十数万円必要なんですよ。そのお金がなければ、最後に誰が払うのか揉めるかもしれないし、後味の悪い終わり方になってしまう。

——そうした見逃されがちな部分、お金に関する部分がちゃんとしていたから、心地よく終わることができたのかもしれませんね。

最後は一本締めをして解散でした

「プロジェクトの始め方」「起業のノウハウ」に関する情報はさまざまなところで目にしますが、「プロジェクトの終わらせ方」を教える記事やセミナーはあまり見かけません。でも、今回2人のお話を聞いて、プロジェクトを上手に終わらせるために考えておいたほうがいいこと、知っておいたほうがいいことが、関係性の面でも経営的な面でもたくさんあると感じました。7年目を迎えるこれからの東北において、「プロジェクトの終わらせ方」というのは大事なテーマになってくるかもしれませんね。

東北マニュファクチュールでは、活動を継続している団体、復興を超えてその地域に根付いた事業を引き続き取材しつつ、良い終わり方をした団体にも注目していこうと思います。

なお、さんざん「終わり」について語ってきたところで何なのですが、ぼっぽら食堂をきっかけとなった漁網100%ミサンガは、マーマメイドのメンバーのひとり・工藤悦子さんがいまでも精力的に製作しています。悦子さんは手仕事が大好きで、これからもどんどんつくっていきたいとのこと。「買いたい」「イベントで売りたい」という場合は、これまでと変わらず「info.tumugiya@gmail.com」宛に問い合わせてくださいね。悦子さんは大喜びで対応してくれるはずです!

 


■ マーマメイド
HP:http://mermamaid.com/i

2017.1.14