物語前編

福島第一原子力発電所から20km圏内にある南相馬小高区は、全住民が避難を余儀なくされた町です。IT起業家の和田智行さんは、「住民が帰還するときに備えて、女性が働ける職場をつくろう」と、『HARIOランプワークファクトリー小高』を設立しました。
避難指示が解除される7月12日を目前に控えたこの町を訪問し、和田さんにお話を伺いました。
お金を持っていても、避難所に入ることはできなかった
和田さん:震災が起こったとき、子どもたちは1歳と3歳でした。原発の水素爆発を受けて着の身着のまま西へ逃げたけど、避難所はいっぱいで入れなかったんです。お金は持っていたけれど、食べ物を手に入れることもできないし、子どものお尻も洗ってあげられない。お金という柱ひとつに寄りかかって生きるというのは非常に危ういな、と思うようになりました。
和田さんは2005年に東京の仲間たちとITベンチャーを設立し、故郷の小高から遠隔で仕事をしていました。当時抱いていた目標は「より多くのお金をより早く稼いで、アーリーリタイアしたい」というもの。しかし、震災を機に価値観が180度変わったと振り返ります。
和田さん:ソーシャルゲームをつくる仕事をしていたんですが、家に帰れない状況の中でそんな虚業に取り組むことに意味を感じられなくて。どうにも心が満たされなかったんです。生まれ育った地域の役に立つ仕事がしたいと思うようになり、会社を辞めました。
原発事故後、小高区は全域が警戒区域に指定されましたが、2012年4月には避難指示解除準備区域へと再編、宿泊こそできないものの自由に立ち入りできるようになりました。
企業やNPO、大学などが視察に来るようになり、会津若松に避難していた和田さんは小高区内の案内を頼まれるように。しかし、何十人もの人を案内したけれど、状況は何も変わらなかったといいます。
和田さん:ほかの被災地は外から来た人と上手く連携して復興プロジェクトを起こしているのに、住民が誰もいない小高では何も始まらないし何も残らない。せっかく多くの人が関心を持ってくれているのにもったいないなと思ったんです。
腰を据えて何かに取り組める環境が必要だろうと考えて、コワーキングスペースをつくることにしました。
その頃の小高区はまだ倒壊した建物が道を塞いでいてゴーストタウンのような状態でした。コワーキングスペースという言葉も浸透しておらず、周囲からは「何をする気だろう」と訝しまれたそう。
そうした状況にもめげず、和田さんは建物を借りて片付け、2014年5月に『小高ワーカーズベース』をオープンしました。当初の構想通り、NPOやジャーナリストに使われはじめ、人が集まる小高の活動拠点として機能するようになりました。
復興の機運を高めた『おだかのひるごはん』
町に入れるようになると、住民たちは定期的に小高区内で集まって昼ごはんを食べるようになりました。同じ境遇にいる人同士だからこそ気兼ねなく話せることがあるからです。
和田さん:冬に豚汁を食べていたら、外で寒そうにしている復旧作業員さんの姿が目に入ったんです。「あの人たちに何か温かいものを食べさせたいね」という話になって、地元のお母さんたちと飲食店をつくることにしました。それが『おだかのひるごはん』です。
全員が飲食未経験からの挑戦。しかも、場所は避難指示解除準備区域です。「商売として成り立つのか」と心配されながらのスタートでしたが、温かな“おふくろの味”はとても好評で、復旧作業員や家の片付けを行う住民で連日賑わいました。
メディアにも何度も取り上げられ、「小高を再生しよう」というムードが高まったそう。そうした盛り上がりを受けてでしょうか、地元有名店の双葉食堂が再び小高で営業を再開することを決心。双葉食堂の店舗を借りていた『おだかのひるごはん』は営業を終了することになりましたが、和田さんは「役割を果たせた」と満足しているといいます。
和田さん:双葉食堂は小高区外の仮設商店街で営業を再開していて、女将さんは最初「小高に戻るつもりはない」と話していたんです。でも、時間の流れと共に気持ちが変化して、もう一度挑戦しようと思ってくれた。嬉しいことですよね。『おだかのひるごはん』がそのきっかけのひとつになったなら、取り組んだ意味があったと思います。
お店としての営業は終えたものの、『おだかのひるごはん』は今後もイベント等に出店していく予定です。
2015年9月に誕生したのは、仮設スーパー『東町エンガワ商店』です。住民が暮らしていくにはスーパーやコンビニが必要です。しかし、元々小高で営業していたスーパーは長期に渡る避難で食品が腐敗し動物に荒らされたため、建て直さなければ使えない状態でした。
行政が店舗を用意して運営母体を募集しましたが、手を挙げる人はなく時間だけが過ぎていったそう。そこで和田さんが手を挙げ、運営を担うことに。店名には「住民や小高を訪れる人の縁を結ぶ場所にしよう」という想いを込めました。
町を再生するために必要なものが、一つひとつ形になってきています。
2016.6.16