特別寄稿
東日本大震災の後、東北のあちこちでものづくりを通して仕事を生み出そう、コミュニティをつくろうというプロジェクトが生まれました。いまは無くなってしまったものも含めると、その数は数百にのぼります。
なぜ、同じようなプロジェクトが同時期に各地で起こったのでしょうか。私たちはこの現象に興味を抱き、一つひとつの製品と、その背景にある物語を訪ね歩きました。
「いろんな人に出会って、自分のつくったものを喜んでもらえて。70歳を過ぎて、どんどん元気になっていくみたい」
「いま必要なのは、人とものの関係、人と人との関係を捉え直すきっかけになる製品なんじゃないか」
「こどもが急に熱を出したとき、みんながサポートしてくれて、気兼ねなく帰ることができる。こんな居心地のいい職場、いままでなかった」
ものづくりが必要とされた理由や、ほかの地域での展開可能性。50を超える現場を回りおぼろげながら見えてきたことを、震災から5年の節目を迎えるいま、改めて紐解いてみようと思います。
なぜものづくりだったのか
取材時に必ず聞いていたのが、「復興の手段としてものづくりを選んだ理由を教えてください」という質問です。答えは団体によってさまざまでしたが、多くの団体が共通して挙げたのが、以下の4つでした。
まずは、物理的な理由です。東北沿岸部で盛んだった水産業は、漁船、港湾設備、加工場など大きな設備を必要とするため、復旧に時間を要します。農業も塩害を受け、農地や機材の大半が流されました。サービス業や販売業をしようにも建物がありません。「いま取り組めるものは何だろう?」「狭い避難所や仮設住宅でもできるものは何だろう?」と考えた結果、行き着いたのがものづくりだったといいます。
2つめの理由は、東北の歴史・文化的背景によるもの。「東北の人は手先が器用で、細かい作業が苦にならない人が多い」——つくり手の方への取材でそんな話を聞くことが度々ありました。厳しい寒さが長く続く東北の冬、人々は昔から家で編み物や内職仕事をしていたのでしょう。縫製学校を出て縫製工場で働いていた方、精密機器などの工場に勤務していた方もたくさんいました。
3つめは、ものづくりの持つ作業療法的な機能です。つくり手の多くが、「ものづくりをしている間は、津波や余震の恐怖、辛い経験を忘れることができた」と話していました。震災後は人間関係のトラブルもたくさんあったと聞きます。ひとりで黙々と没頭できるものが必要とされていたのでしょう。
また、いままで誇りを持って仕事をしてきた人たちにとって、支援を受け続けることは、ありがたい一方で辛いことでもあったようです。「自分がつくったものを誰かが買って喜んでくれる」ということが、自信を取り戻す後押しになったのかもしれません。
興味深いのが、震災後に生まれた製品に色鮮やかなものが多いこと。あるとき「周囲が瓦礫で灰色になってしまい気持ちも沈む中、色とりどりの素材は見ているだけでも癒された」という言葉を聞いて納得しました。多くの人が無意識に彩りを求めていたからだったのですね。
4つめが、“お茶っこ”との親和性です。東北には元々、近所の主婦やおばあちゃんたちが集まり、お茶菓子を持ち寄ってお喋りするお茶っこという風習がありました。震災によってそれまでの地縁がバラバラになる中、お茶っこはより一層求められていたのでしょう。
先ほど、「ひとりで黙々と没頭できるものが必要とされていた」と書きましたが、一方で「誰かと一緒に取り組めるもの」を必要としていた人もたくさんいたのだと思います。ものづくりは、みんなで集まって話す絶好の口実になりました。
また、震災直後は、「家が流され避難所に入居した被災者」と「かろうじて家が残った在宅被災者」、「津波の被災者」と「原発立地自治体からの避難者」の間に、心理的な溝や分断が生じました。それが、同じプロジェクトに参加することで両者の間に会話が生まれ、「被災者」「在宅被災者」といったカテゴリーを越えて「Aさん」「Bさん」という関係が戻ってきたのだといいます。ものづくりが人をつなぐ媒介となったのですね。
目の前にある材料をもとに、隣にいる人と相談しながら、自分の手を動かしてひとつのものを生み出していく。その過程は、何もかもが流されて瓦礫だらけになったまちや暮らしを再建していく過程と似ていたのかもしれません。
製品の材料となったもの
震災後に東北で生まれた製品は多種多様ですが、そこにはいくつかの傾向があるように思います。ここでは素材によって大まかに分類してみました。
① 地域資源を活用したもの
地域に脈々と受け継がれてきた伝統素材の会津木綿を使った『IIE』『會空』、牡鹿半島に生息する鹿の角を漁網の補修糸で彩ったアクセサリー『OCICA』など、その地域特有の背景を持つ素材を上手に使ったもの。
「地域資源の活用」は被災地以外の地域でも注目されているので、メディアに取り上げられることも多く、震災から時間が経っても長く売れているものが多いことが特徴です。
ほか: Puchinya(ウエットスーツ)、希望のかけ箸(木材)、KUMIKI(木材)、ふくしまオーガニックコットン(綿花)等
② 瓦礫や、震災によって行き場を失った素材を活用したもの
カラフルな瓦礫のキーホルダー『瓦Re:KEYHOLDER』、畳んだ呉服店の着物地を使った『FUGURO』などがこれに当たります。割れた大堀相馬焼を使った『Piece by Piecce』、廃業した漁師さんの大漁旗をリメイクした『大漁旗ハンチング』などは①の地域資源とも言えるかもしれません。
震災によって発生した素材は数に限りがあります。ここからものづくりを始めた団体の多くは、どこかのタイミングで素材を購入したもの・支援を募って集めたものに切り替えました。
ほか:だらすこ工房の木製品(倒れた防潮林の黒松)、Nozomi Project(割れた陶器のカケラ)など
③ 支援物資を活用したもの
震災直後、被災地には全国から大量の支援物資が送られました。しかし、中には使われず余ってしまったものも。「せっかく送っていただいたものを捨てるのは忍びない、何かに活用しよう」と製作しはじめたのが『高白浜草履組合の布草履』や『織り織りのうたヨーガマット』です。
また、カーテン生地のサンプルを活用した『おらほもあんだほもがんばっぺし!Bag』や毛糸のアクセサリー『編*花』など、プロジェクトをはじめるにあたり素材の支援を募ったケースもありました。
これらは、身近な素材、使われていなかった素材をアイデアで再生させた好例として注目を集めていました。“もったいない精神”の表れですね。
ほか:SKC(毛糸)、恵プロジェクト(着物)、『つながりのかばん』(古封筒)など
④ その他
『ama project』『LOOM BAG』『Amanecer』など、①〜③のどれにも当てはまらない製品も数多くあります。身近な素材からアイデアを得て商品を開発するのではなく、つくり手が製作したいもの/できるものを決め、必要な材料を購入したケースです。「素材の調達が思うようにいかない」という側面があった①〜③の製品とは違い、必要なときに必要な量の素材を仕入れることができたため、生産管理がスムーズで計画を立てやすいというメリットがありました。
ほか:多数
プロジェクトを続ける上での課題
震災後に生まれた数百のプロジェクトのうち何割かは、この5年の間に姿を消していきました。終了したプロジェクトと現在も続いているプロジェクトでは、何が違ったのでしょうか。
最初に断っておきたいのは、終了したプロジェクトが「失敗」ではないということです。終了した理由は、「避難所や仮設住宅からの転居を機に集まるのが難しくなった」という物理的条件によるものから、「復興が進み元の仕事に戻ることができた」というポジティブなものまでさまざま。最初からプロジェクトを「絆創膏のように、傷が塞がるまでサポートする役割」と位置づけていた団体もありました。一定期間であっても、被災者の心の拠りどころになっていたのであれば、それはとても意味のあることだと思います。
その上で、激動の時期を乗り越え地域になくてはならないものとなったプロジェクトには、それなりの理由があるように感じます。
・支援者の関わり方
取材したプロジェクトの半数以上は、仕事やコミュニティを求める被災者の声を聞いた支援者(地域内外のボランティア、Iターン/Uターン者)が、素材や寄付、協力者を集めて立ち上げたものでした。
現地のつくり手は、手先が器用でものづくりが得意な反面、「プロジェクトを立ち上げる」のは初めてという人がほとんど。製品の企画開発、デザイン、広報、ウェブサイト製作、組織運営といった部分において、支援者が果たした役割は大きなものでした。
ただ、これらの作業には多大な時間と労力を取られるため、無償で関わりつづけるのは厳しいものがあります。そこで現れるのが、「プロジェクトを現地の人だけで回せるようにする」「支援者も運営メンバーとして人件費をもらうようにする」という選択肢です。
前者はストーリーとして理想的ですし、『ママSUNスマイル』『東北ちくちくプロジェクト』などの好例もあります。どちらも若くやる気のある主婦がつくり手で、支援者が行っていた仕事を主体的に引き受けていきました。
しかし、つくり手が高齢だったり、メンバーの中にリーダーとなれる人がいなかったりした場合、現地だけでプロジェクトを回すのは困難を極めます。そこで無理に引き継ごうとすると、負担がかかるのは被災者であるつくり手。「現地の人だけでプロジェクトを回すのがいいこと」と一概に決めつけないほうがよさそうです。
ところが、「寄付金が被災者以外のスタッフの人件費に使われるのは嫌だ」と考える寄付者や外部支援者も一定数いたようです。せっかく寄付したお金をちゃんと役立ててほしい、被災者のために使ってほしい、と思うのは当然のこと。ですが、支援者に人件費が出ることでプロジェクトが安定して地盤が固まるのであれば、それが一番被災者のためになるはずです。
支援者の重要性を理解し応援してくれる人がたくさんいたら、終了せずにすんだプロジェクトもあるかもしれません。
・変化に対応する姿勢
被災地は変化のスピードが早く、状況がめまぐるしく変わっていきます。プロジェクトに積極的だったメンバーが転居や就職により参加できなくなったり、集会所が使えなくなったりと、1か月先、2か月先の状況すら予測不可能です。
寄付や助成金を募るときは「百人の雇用を生み出す」「新たな産業をつくる」といった“わかりやすくて大きな目標”を掲げたほうが賛同されるものですし、最初に掲げた目標を着実に達成していくことがいいことだと評価されます。しかし、そうした通常のビジネスの理屈を被災地に当てはめるのは、少し無理があるように思います。
前項でも触れましたが、最初は「地元の人だけで回せるようになること」を目標にしていたけれど、つくり手たちはそれを望んでいないことがわかり方針を切り替えた、という団体がいくつかありました。
プロジェクトに人を当てはめるのではなく、人に合わせてプロジェクトのあり方をしなやかに変えていく。最初から大きな目標を立てて走り出すのではなく、小さな成功を一つひとつ積み上げていく。復興プロジェクトを進めるにあたって大事なのは、そうした柔軟な姿勢ではないでしょうか。
「照宇一隅」という言葉があります。ひとつのプロジェクトが照らせるのは東北のほんの一地域、ほんの数人だけかもしれませんが、あちこちでそうした一隅を照らす活動が行われることで、東北全体が明るくなるのだろうと思います。
いま、東北から学べること
「東北の復興ものづくりを応援したい」という想いから始まった『東北マニュファクチュール・ストーリー』ですが、取材を始めてすぐに、「東北から学ぶことはたくさんある」と感じるようになりました。
いままで積み重ねてきたものが流され、全てを1からつくり直さなくてはいけなくなった東北では、通常時ではありえないスピードで数々のイノベーションが生まれました。その動きは、ほかの地域のお手本になるかもしれません。
・ 子育て中のお母さんの「理想の職場」
まず挙げたいのが、多くのものづくりプロジェクトが、子育て中のお母さんにとってとても働きやすい職場になっていること。
メンバーがそれぞれの家で作業する団体では、子どもが小さいうちでも隙間時間で働けるというメリットがあります。「仕事が忙しいときにこどもが応援してくれた」「旦那さんが作業の一部を手伝ってくれた」といった微笑ましいエピソードも耳にしました。お母さんが楽しく働く姿を見るのは家族にもいい影響を与えるようですね。
工房に通勤して仕事をする形をとっている団体では子連れ出勤を可としているところも多く、みんなで子どもの様子を見守ったり新米お母さんが子育ての悩みを先輩のお母さんに相談したりと、職場が子育てコミュニティとしても機能していました。子どもの発熱など急に休まなくてはいけないときも、ほかのメンバーが「お互いさま」の気持ちで送り出してくれるので、無駄に罪悪感を感じることがない、という声も。
10人のお母さんが働く気仙沼の『ピースジャム』では、震災後の4年間で13人の子どもが生まれたというから驚きです。「ここなら仕事と子育てを両立できる」と思えるから、お母さんたちは安心して子どもを産めるのではないでしょうか。
「30人のお母さんを雇用すること」を当面の目標とする代表の佐藤さんは、「地方の小さな会社でもお母さんを雇いながら利益を出せると証明したい。年齢も状況も多様なお母さんたちが30人も集まったらいろんな課題も出てくると思いますが、それを解決しながら知見を貯めて、ほかの会社でも通用するモデルにしたいんです」と話していました。
保育園の供給不足に職場の無理解など、現代の「働くお母さん」は過酷な環境にさらされています。東北のお母さんたちのような働き方が選択肢のひとつになれば、救われるお母さんも多いのではないかと思います。
・ 高齢者がいきいきと働ける場所
ものづくりに取り組む高齢者たちが元気で明るくパワフルだったことも、取材を通して印象的だったことのひとつです。
90歳を超えてばりばりとものづくりに励むおばあちゃん、活動のためにSNSを覚えたお母さん。住み慣れた家を流され辛い想いをしていたと思いますが、「ものづくりがいきがいになった。使ってくれる人のためにも、丁寧につくらないと」「活動を通してたくさんの人と知り合い、震災前よりも知り合いが増えた」と、明るい表情を見せてくれました。
そうした姿を見ていると、高齢者に必要なのは手厚い福祉サービスではなく、気ままに活動できる場所や地元や社会に貢献できる機会なのかもしれない、と感じます。
「ものづくりは好きだけれど、売れる製品をつくるセンスがない、販売するノウハウがない」という高齢者は全国にたくさんいるはず。『一般社団法人うみねこ』や『だらすこ工房』のような場が増えれば、介護予防や孤立防止にもなるかもしれません。
・ 地域に起こった変化
「このまちは震災が来なくてもいずれ破綻していた。でも、衰退はゆるやかだったから現状を変えようとする動きは起こらなかった。震災はある意味では、まちが再生するトリガーになったのかもしれない」。——取材をする中で、そんな話を聞くことがありました。
若者の意見を聞かない、よそ者を受け入れない、新しいことに挑戦する人を応援しない。震災前の東北にはそういった雰囲気が蔓延していたといいます。しかし、何もかも流されたことで否応無しに新しいことに挑戦せざるを得なくなり、ボランティアに助けられるという経験をしたことで外の人の意見を取り入れる柔軟さが生まれました。それがイノベーションを生む土壌になっています。
高齢化や産業の衰退は地方が共通して抱える悩みです。東北が辿った軌跡を振り返ることで、見えてくるものがあるかもしれません。
・「つくり手」と「使い手」をつなぐ製品
震災前の日本は、「つくり手」と「使い手」、つまり「生産者」と「消費者」が遠く離れて見えなくなっていたように思います。それによって、使い手が自分の手で何も生み出せなくなっていたり、丁寧につくられた手仕事品が大量生産品と同列に並べられたり、ということが起こっていました。
しかし、震災によって「生活に必要な道具を自分でつくれないこと」の危うさが浮き彫りになり、原発事故によって「誰かにリスクを押し付けて消費だけすること」に疑問を持つ人が増えました。
そうした想いを色濃く反映したのが、『石巻工房』や『KUMIKI』といったDIY家具製品。どちらも、使い手に「自分で考える」「自分でつくる」ことを促しています。
『石巻工房』の千葉さんは「消費者が考えなくて済む製品をつくったほうが売れるかもしれないけど、震災を経験した工房だからそんなことはしたくない。ユーザーに優しくない、不親切な工房を目指している」と、『KUMIKI』の桑原さんは、「ものが溢れているいま、単純に便利さを手に入れるための商品を僕はつくりたくない。いま必要なのは、人とものの関係を捉え直したり、人の行動を変えたりする商品なんじゃないか」と話していました。
ほかの現場でも、製品を購入した人がつくり手に感想や励ましの言葉を送ったり、古着などの素材を寄付して完成した製品を購入したりと、いままでになかった関係性が生まれています。
使い手の顔が想像できれば自然と「丁寧につくろう」と思うし、つくり手の暮らしにつながっていることがわかれば「適正な価格で買おう」と考えるもの。とてもまっとうで、心地よい関係ではないでしょうか。
終わりに
東北マニュファクチュール・ストーリーは、牡鹿半島で浜のお母さんたちと仕事づくりを行ってきた一般社団法人つむぎやが、スイスのマニュファクチュール・ブランドであるジラール・ペルゴの支援を受けて運営しているサイトです。
マニュファクチュールとは時計業界の用語で、“小さな部品までこだわって自社で製造していること”を意味します。
真摯にものづくりに向き合い歴史を重ねてきたジラール・ペルゴは、未曾有の災害が襲った東北でものづくりを通して立ち上がろうとする人々の姿に感銘を受け、震災後に生まれた製品を「東北マニュファクチュール」と呼びました。それがサイト名の由来となっています。
正直に言うと、東北のおばあちゃんやおじいちゃんには中々覚えてもらえない、ちょっとややこしい名前です。しかし、そこには東北のものづくりに対する深い敬意が込められています。
私たちは取材を通して、ものづくりの背景にたくさんの物語があることを知りました。心から「紹介したい」と思える物語ばかりです。
高度経済成長期にできた社会の仕組みがあちこちで制度疲労を起こし、人口減少、少子高齢化、過疎化、産業衰退、環境汚染など多くの問題を抱える課題先進国・日本。中でも東北は、それぞれの課題に真っ先に向き合わなくてはいけなくなった課題先進地と言えます。
そんな東北で震災後に生まれた団体や製品は、旧来の組織や製品のあり方とは少し異なっているように感じます。根底に流れる哲学や姿勢は、これからの日本が進む道を照らす明かりになるかもしれません。
震災から5年の節目を迎えプロジェクトを終了する団体も出てくるかと思いますが、東北マニュファクチュール・ストーリーでは引き続き取材を続けていく予定です。これからも一緒に東北のものづくりを見守っていただけると幸いです。
文:ライター 飛田恵美子
2016.3.11