物語前編

「忘れられるのが、一番怖い」。震災後すぐに被災地でボランティアを始めた杉浦恵一さんは、地元の人たちからそんな声を聞きました。それなら、と始めたのが、月命日にみんなで明かりを灯す『ともしびプロジェクト』です。
反響が大きかったことからオリジナルのキャンドルホルダーも開発することになりました。気仙沼南町に開いたキャンドル工房は、地元女性たちの“働く場”にもなっています。
地元の人と気仙沼の未来を思い描いた、2011年の夏
杉浦さんは愛知県の安城市出身です。高校を卒業してから6年間は、ヒッチハイクで全国各地を旅していました。その中で東北も訪れお世話になったことから、東日本大震災が発生するとすぐに旅を中断、一週間後には物資を持って福島県のいわき市に駆けつけました。
杉浦さん:後輩とふたりで物資を車に乗せてとにかく東北へ向かって、その間にどこが一番まずい状況かを友人に調べてもらいました。「福島が原発事故の影響で物資が入ってきていないらしい」と電話をもらって、「じゃあそこ行きます」って。福島を目指して北上して、たどり着いたのがいわきでした。
それから3か月ほどは、物資を運んで愛知といわきを往復し、いわきで被災者に必要なものを聞き取りながらボランティアをするという生活が続きました。避難所ではその頃から、今後の仕事を心配する声がたくさん聞かれたといいます。
杉浦さん:正直、「こんな大変なときくらい働かなくてもいいのに」と思ったんですけど、みんなやっぱり不安そうなんですね。「何かできることがあれば」と思ったんですけど、「あ、でも俺よく考えたらちゃんと働いたことないわ」って(笑)
「仕事に関しては俺じゃどうしようもないな」なんて思っていたときに、東北に支店を出したいという会社から知人経由で相談を受けたんです。「アジアに支店を出すつもりだったけど、こんな状態だと東北では仕事が無くなるだろうから、少しでも貢献になるんじゃないか」っていうんですね。すぐ会って、「みんな仕事を必要としているからぜひ!」と話して、支社出店を手伝いました。
2011年6月1日に支社の開所を見届けたあとは、物資のマッチングサイトを運営している会社から以来を受け、現地コーディネーターとして宮城へ。夏になると各地でボランティアセンターが閉鎖していったことから、民間でボランティアセンターを運営しようと考え、場所を探して走ります。塩竈と気仙沼に家を借りることができ、ボランティアセンターを開所しました。
気仙沼で使わせてもらったのは、被災したワインバー。夜な夜な地元の人が集うようになり、気仙沼の未来について話しながら飲んだといいます。
杉浦さん:被災してから最初の夏で、みんな激動の時期を乗り越えてようやく生活が安定しはじめた頃でした。飲むと、おっさんたちがわんわん泣くんですよね。「ここまで来るのにどれだけ大変だったか」「これから気仙沼をいいまちにしていこう」って。夢のような話ばっかりだったけど、それが面白かったんです。いままで、まちについてみんなで語ることなんてなかったから。
気仙沼の人々の熱さにすっかり惚れ込んでしまった杉浦さんは、さまざまなプロジェクトに関わっていくことになりました。
明かりを灯すことで、「忘れない」を表現する
「これから不安に感じていることは何ですか」。物資のマッチングを通して被災者に質問すると、たくさんの人から「忘れないでほしい」「忘れられるのがいまは一番怖い」という返事が返ってきました。
杉浦さん:最初はピンとこなかったんです。まだ震災から半年経つか経たないかの頃だったし、「いや忘れないけどね、あんな大きな出来事」って。でも、5年後10年後をイメージしたら、だんだん被災地の情報は届かなくなって、みんなの心から震災が離れていくことが想像できました。それに、連休になるとボランティアがばーっと来て平日になるとばーっと帰って、というのが繰り返されていて、地元の人たちは寂しさを感じているのかもしれないな、と思いました。
その頃ちょうど気仙沼でキャンドルイベントが開かれ、出席した杉浦さんは「これだ!」と閃いたといいます。月命日の11日に全国でキャンドルを灯して写真を送ってもらえたら、「忘れない」を表現できるかもしれない。
杉浦さん:当時は募金の使途に疑問を投げかける声もあって、「何かしたいけど何が本当に役立つのかわからないし、何をやっていいかわからないから何もしない」という人が一定数いたんです。気持ちはあるのに、それを届ける先がなくてしまっちゃう。それはすごくもったいない。でも、キャンドルを灯して写真に撮るくらいなら、誰でもできるでしょう。そうやってちょっとでもつながっていれば、関心を持ちつづけてくれるだろうし、いつか遊びに来てくれるかもしれない。そう考えました。
活動を『ともしびプロジェクト』と名付けてフェイスブックページをつくったところ、『北海道支部』『東京支部』といった支部が全国や海外に誕生。あちこちから被災地を思って灯されたキャンドルの写真が届きはじめました。参加者同士の交流も生まれ、待ち合わせて一緒に被災地を訪れる人も出るように。被災地に想いを寄せる人同士のコミュニティとして機能するようになりました。
試行錯誤の末に完成した『TOMOCAN』
月命日の11日に、全国各地で明かりを灯す。そんな風に始まった『ともしびプロジェクト』ですが、予想以上に反響が大きかったため、次のステップへ移行することに。オリジナルの製品を開発し、地元女性の雇用を生むことに取り組みはじめました。
雇用は、いわきで活動していたときから要望が出ていたテーマです。特に、女性が働く場、働きたいと思える場が少ないことが課題でした。キャンドル工房はまだ気仙沼にはなく、可愛いイメージなので若い子にも「働きたい」と思ってもらえるのでは、と考えたといいます。
杉浦さん:廃ろうそくを集めて、ワインバーで毎日試行錯誤を繰り返しました。いろいろ試す中で、風船を使ってキャンドルホルダーをつくる方法を見つけたんです。でも、適当な形や大きさで販売しているところばかりで、これをきちっと規格化したら、製品としていいものができるんじゃないかと思いました。で、やってみたらできちゃって。ちょうど仕事を探していた地元のお母さんと知り合って、つくってもらうことにしました。
つくり手のお母さんに「この製品をもっといいものに昇華させてください」と依頼し、一緒に手を動かしながら完成度を高めていきました。全国から届いた廃ろうそくを使っているため、素材にはばらつきがあります。また、気温や湿度によってもキャンドルが固まる時間が変わるので、色・形・大きさを揃えるのには苦労したそう。それでも、何度も製作する中でお母さんたちは勘を磨いていき、素材や気温の変化に応じて時間を変えながら、同じものがつくれるようになっていきました。
最終的に完成したのは、ぽってりとした丸みが可愛らしい、両掌にすっぽり収まるサイズのキャンドルホルダー。色は全8色。中にティーキャンドルを入れると、柔らかな明かりが周囲を照らします。商品名は、『TOMOCAN』と名づけました。
杉浦さん:支部の人たちも製品の完成を喜んでくれて、販売も手伝ってくれました。ともしびプロジェクトがあったから『TOMOCAN』も全国に届いたし、『TOMOCAN』が売れることでともしびプロジェクトも広まっていく。そういう循環ができたのは、全国に応援してくれた人たちがいたからですね。その人たちがいなかったら、製品をつくろうなんて考えなかったと思います。
『TOMOCAN』は気仙沼の中でも少しずつ認知されていき、地元のお祭りで灯してほしいという要望もくるように。2014年に気仙沼女子高等学校が45年の歴史を閉じて廃校になったときは、最後の卒業生と一緒に『TOMOCAN』を300個製作し、夜に教室に飾りました。
杉浦さん:キャンドルをどういう風に飾ろうか、という話になって、生徒たちから出てきたのは「ありがとう」の文字の形に並べるというものだったんです。そこで「ありがとう」という言葉が出てくるのがすごいですよね。夜にみんなで点灯して、キャンドルナイトを楽しみました。学校がなくなっちゃうのは寂しいことかもしれないけど、良い思い出になってくれていたらいいな、と思います。
2015.7.29