つくり手インタビュー
震災から一ヶ月経たないうちに事業を再開、助成金等に頼らず、誰ひとり解雇しなかったアストロ・テック社。易きに流れず、信念を持って復興の道を歩んできた佐藤秋夫社長に会いに、南三陸を訪問しました。
失ってしまったものに縋っていても仕方ない。
いまあるもので、何ができるか考える
ーーアストロ・テックはいつ創業された会社なんですか?
佐藤さん:平成15年です。それまでは時計メーカーの工場で働いていたんですが、あるとき部下50〜60人を解雇しなければいけなくなりまして。自分だけ会社に残るのは許せなくて、退職を申し出ました。その後、元取引先から「うちの仕事をしないか」と声がかかり、アストロ・テックを立ち上げました。
ーー創業から10年以上、続けてきたんですね。震災時も南三陸にいらっしゃったんですか?
佐藤さん:ええ、自宅も工場も流されました。でも、悔しさも悲しさも、何も感じることができないんです。感情も言葉も出ませんでした。
——そうした中、避難所のリーダーを務めたとか。
佐藤さん:ああいうものは、行政任せにするものでもありませんから。ご存知の通り、南三陸は行政の方も随分亡くなったでしょう。できる人がやればいいんです。
——一方で、会社の再建にも動いていらしたんですね。
佐藤さん:4月3日に、内陸の登米の空き工場を借りて事業を再開しました。ひとりでも従業員を雇っていたら、経営者として責任がある。解雇してしまえば簡単だったかもしれないけど、その考えは全く頭にありませんでした。家も失う、家族も失う、職場も失うでは、生きる道がないでしょう。せめて職場だけは守らないと、と思いました。
——でも、震災からまだ一ヶ月経たない時期ですよね。どうしてそんなに早く再開できたのですか。
佐藤さん:避難所にいると、落ち込むだけなんですよ。昼間は惨状を見たくないから、早く夜になればいいと思う。夜は夜で、早く朝が来ないかと思う。そんな状態で何もせずにいるよりも、一時間でも二時間でも働いて、千円でも二千円でも自分の手で稼ぎたいと思いました。
あれがない、これがないと嘆いたって、流されてしまったものは仕方ない。残っているものをかき集め、工場でできることから始めました。最初の給料は微々たるものでしたよ。集まってくれた従業員に「いまあるのはこれだけだ」って全部さらけ出して、自分も含めてみんなで均等に分けました。

工場では、電子部品部門とバッグ部門、両方の社員が同じフロアで働いています。
——加賀美さんと出会ったのは、同じ年の7月でしたね。バッグの製作という異分野でのお仕事でしたが、すぐに「やる」と決めたのはなぜですか。
佐藤さん:新たな仕事に取り組めば、新たな雇用が生み出せるでしょう。ひとりでもふたりでも、雇えればいいなと思いました。
——雇用を生み出したい、と思ったのには、何かきっかけがあったのですか?
佐藤さん:実は、震災前から思っていたんです。南三陸は一次産業が盛んなまちだけど、それだけじゃ駄目なんじゃないかと。若者が外に出ていってしまう傾向がありましたし、もっと若い人が就きたいと思える仕事が必要だと考えていました。でも、いかんせんきっかけも何もない。それが、震災に遭って加賀美さんと出会って、道が開けた気がしました。
——機械を譲ってもらえる話もあったそうですが、購入されたそうですね。
佐藤さん:仕事は貰う、機械は貰う、では自分の気が済まなくて。貰うのが当たり前になってはいけない。「無理するな」と言われましたが、少しずつでもお支払いしなければ、と思いました。いただいてしまうと、どうしても甘えが出てしまう。タダで貰ったものだから、と気が緩んで機械の扱いが雑になるかもしれません。月々苦労してお金を払っているんだと思うと、自然と大事に扱うようになる。そういうものだと思います。
——助成金等は利用されたのですか。
佐藤さん:いえ、公金は一円も入れていません。一銭もないんだから喉から手がでるほど欲しかったけど、助成金が入らなければやっていけない、というのでは経営者として駄目だと思いまして。ただ、うちは貸してくれる銀行さんがいたから、恵まれていたと思います。
土地や家屋も、期限付きで無料とか、破格で借りられる話もあったんですよ。でも、数年経ったらまた場所を探して移転しなければいけない。そう考えると、苦しくても最初からちゃんとしたお金を払おうと思って、この場所で工場を再建しました。あとは借金を返せばいいだけなので、そういう意味では気が楽ですね。
——目先のことではなく、長期的な視野で行動されていたのですね。現在は、バッグを自社一貫製造されていると伺いました。
佐藤さん:3年計画で考えていたんですが、従業員ががんばってくれたおかげで、1年と少しで技術を習得することができました。まだまだ至らないところばかりですが、製品を世に出せるくらいの自信は持てるようになりました。
そこで、「Ordinaire(オルディネール)」という新しいブランドも立ち上げたんです。LOOM BAGは受注生産だから、手が空くこともある。それを防ぐためにも自分たちで製作して販売していきたい、と。一次産業の世界ではいま、六次産業化が叫ばれているでしょう。バッグの世界でも、同じことができればと思いました。
自社にデザイナーはいないけど、ネットで公募をしたらありがたいことにたくさんのデザイン案が集まりました。ブランド名はフランス語で「いつもの」という意味。普段使いできるバッグとして発表しました。

こちらがそのOrdinaireトートバッグ。
——震災前と比べて、売上が200%になったと伺いました。
佐藤さん:以前が少なかった、ということもありますが(笑)電子部品の仕事は、忙しいときと暇なときがあります。いまはLOOM BAGの受注生産に加えて自社ブランドのバッグもつくっているので、隙間がなくなりました。それが良かったんでしょう。
——いままで活動を続けてきて、嬉しかったことは何ですか?
佐藤さん:すべてですね。加賀美さんをはじめ、たくさんの人とお会いできて。震災前だったら、到底お会いできなかったような方々が、同じ目線で話をして、同じ目標に向かって一緒に歩んでくれるんだから。そのおかげでこんなものがつくれるようになって、たくさんの人が持ってくださって…。
——皇后さまもお持ちになっているとか。
佐藤さん:それだけ被災地に心を寄せてくださっているということだと思います。たまたまお買い上げいただいたのがうちのバッグというだけで。
「商売下手だな、皇后さまが持っていることをもっとアピールしたほうがいいぞ」なんて言われることもあるんですが、畏れ多いことです。被災地のことを想ってくださって、私たちのバッグを手にしてくださっている。それだけで大満足なので、ほかに望むことなんてありません。
——震災前と後で、ご自身の考えに変化はありましたか。
佐藤さん:何十年と生きて積み上げてきたものを流されて、私は自分の生き様をすべて否定されたような気がしたんですよ。このままでは駄目だ、と。これまでの仕事や暮らしに愛着はあるけど、失ったものに縋っていても仕方ない。少しでも先を見よう、先を見ようとなんとか進んできました。
復興といっても、ただ元に戻すのではなく、進化していかないといけない。震災前に戻しても、若者は出ていく、産業は空洞化していく、と課題は山積みです。言葉は悪いけど、ある意味変わるためのチャンスをもらったのかもしれないと思っています。あんな辛いことは二度とない、そう思えばいくらでも踏ん張れる。生かされて、たくさんの人に支えてもらっているんだから、そのチャンスをしっかりものにしなければ、と思っています。

お財布やキーホルダー等の小物も製作しています。
——どの地方も抱えている悩みですね。
佐藤さん:政治がいけないとか経済がどうのとか、誰かのせいにして悲嘆に暮れるのは楽だけど、そうしていれば誰かが解決してくれるわけじゃない。じゃあその中でどうやって生き残っていくかを考えなければ。
人が出ていくのは止められない、それなら外から新しく人を呼び込もう。来たいと思ってもらえるような魅力ある仕事をつくろう。大量生産の土俵に乗ったら勝てないけど、丁寧にひとつひとつ手づくりしていることに価値を感じてもらえる人に届けよう。そんな風に考えて行動していけばいい。状況は厳しいかもしれないけれど、悲観はしていません。
——今後の展望はありますか。
佐藤さん:バッグをはじめとして、コートに靴に帽子に、とすべて生産できるようになりたいですね。メイドイン南三陸を増やして、南三陸といえばファッションのまち、と言われるくらいにしたいです。
いまはまだ仮設暮らしの人も多いし、狭い空間に家族と暮らすのは、若者にとっては酷でしょう。外に出ていってしまったとしても仕方ない。でも、一度外に出て南三陸を見て、「戻りたい、復興に携わりたい」と思ったときに、「そういえばアストロ・テックという会社があったな」と思い出してもらえたらいいなと思います。焦らずに、選んでもらえるような会社に育てていきたいですね。
——最後に、何か伝えたいことがあればお願いします。
佐藤さん:絶対の安全安心はないものです。どこで何があるかわからない。だから、何かあったらまず逃げてほしい。命があればなんとかなるものです。こんなどうしようもない奴でも、多少なりとも雇用を生み出してやっていけているんですから。生きてさえいれば、諦めずに歩みつづければ、なんだってできますよ。
2015.4.10