物語後編
3千枚分の仕事をこなしたことで、基礎力がついた
最初の仕事をこなした石巻縫物舎ですが、すぐに新たな仕事が入ってくるわけでもありません。そこで、支援でいただいた端切れを使って、オリジナルのピンクッションをつくることにしました。ころんとした丸みがあり、可愛らしい一品です。これにクリスマスカードを添えてお世話になった人へ送ったところ、多くの人が「これ、売っているなら買いますよ」と言ってくれたそう。どんどん話がつながっていって、最終的には数千個販売することができました。
石巻縫物舎にとって、初めて自分たちで稼いだ活動資金です。このお金を使って、ロックミシンをもう一台自力で買うことができました。
石田さん:そして、「帆布などの厚手素材を縫えるようになればバッグをつくる仕事がくる」と思って、みんなで帆布やデニムを使ってバッグをつくったんです。縫い代をロックミシンで始末して、石巻縫物舎のタグをつけて。ステッチやサイズに狂いのない製品を目指しました。
それを台東区の手作り市『モノマチ』に出したら、結構評判が良かったんです。石巻のみんなにも来てもらって、「交通費は売上から出す。売れなかったら自腹」ということにしていたのですが、売上で交通費と縫製代を賄うことができました。
それから、少しずつ内職仕事の受注も増えていきました。ただ、ある企業から3千枚分の内職仕事を請けたときは大変でした。縫う人が足りず納期に間に合わない状況になり、石田さん自身もロックミシンを買って参戦。あまりの修羅場に、メンバーのひとりは腰を悪くしてドクターストップがかかり、石田さんは納品完了後、頸椎ヘルニアで入院する事態になったそう。
でも、この仕事をこなしたことで、「早く正確に縫う」という縫製の基礎力が格段に上がりました。最初は簡素なものが多かった自社製品も、裏地や装飾がついて、レベルアップしていったそう。バッグだけでなく、ポーチやブックカバーなど、バリエーションも増えていきました。
ものづくりの現場を守りたい
現在、石巻縫物舎は石田さんが取引先とやりとりをして、太田さんが製作現場のリーダーとなって回しています。太田さんは震災時に自宅が倒壊して仮設住宅で生活をしていましたが、現在は新築して元の場所に住居を戻すことができました。60代ですが、毎朝5時に起きて家族の朝食とお弁当を作り、昼間は縫物をして、家族に夕食を食べさせたあとは居酒屋を切り盛りするという、パワフルな女性です。
多忙でも石巻縫物舎の仕事をするのは、つくる楽しさと、自分がつくったものが売れて人に喜ばれる嬉しさを知ったから。石巻縫物舎の仕事をするうちに、太田さんのところへは、ほかからも仕事の依頼がくるようになったそうです。
石田さん:被災者の中には、支援慣れしてしまって「貰えることが当たり前」になっている人もいると聞きます。でも、太田さんを見ていて、働くことって人間の基本なんだなと思いました。太田さんは、「助けてもらった分、お返ししていく」という気持ちで働いてくれているんです。そうした循環をつくることができたのは、とても嬉しいですね。
石田さんも、最初は「石巻のために」と活動していましたが、自分自身がものづくりにのめりこんでいったそう。以前は企画したものを工場に依頼してつくってもらっていましたが、自分で手を動かすことの楽しさに気づいたといいます。「ミイラ取りがミイラになった、ということですね」と笑う石田さん。
石田さん:この楽しさをみんなが知ったら、日本はもっと優しい国になるんじゃないかって、本気で思います。
いまの世の中、頭だけ動かして仕事している人が増えて、バランスを崩している気がするんです。原発事故に対する対応を見ても、未来への創造力を失っているように見える。じゃあ創造力はどこから生まれるの?というと、右脳から生まれる。そして、手仕事は右脳を刺激するといいます。だから、手仕事をする人が増えるといいな、と思うんです。
日本の縫製業が廃れていったのは、海外の安い工場に仕事が流れていったことが大きな要因ですが、縫製業を志す若者が減ったことも一因としてあります。石田さんは、「つくる楽しさ」を啓蒙しながら、いつか若い人たちが「縫製の仕事をしたい。つくる仕事をしたい」と思ったときのために、ものづくりの現場を守り育てていきたいと考えているそうです。
石田さん:震災が起こったときに「子どもたちの未来どうなっちゃうのだろう」と心配しましたが、東北でこうして活動してきて、少しずつ明るい未来への道が見えてきました。一連の出来事は、神様が私に与えてくれたんじゃないかな。引き合わせてくれたんじゃないかな、と感じています。たくさんの人に助けられたから、いいものをつくり続けることで、恩返しをしていけたらと思います。
2014.10.9