物語前編

『笑路』は、東京やその近郊で暮らす東北出身者が、「離れていてもできること」を探した結果生まれたプロジェクトです。
現在代表を務めるのは、陸前高田で生まれ育ち、結婚を機に栃木へ移住した森志津枝さん。「笑路のおかげで、地元を大事に思う東北の人たちとの縁が広がっているんです」と嬉しそうに微笑む森さんに、このプロジェクトの軌跡を教えてもらいました。
地元のために何かしたい

現在の陸前高田
2011年3月10日、森さんは親戚のお葬式と、前年11月に亡くなった母の百箇日法要のため陸前高田に帰っていました。本当は13日まで滞在して片付けを手伝う予定でしたが、親戚のおばさんたちから「あとは私たちがやるから帰って大丈夫だよ」と言われ、急遽予定を変更して栃木へ帰宅。その翌日に、東日本大震災が発生しました。
森さん:もしあのまま滞在していたら、どうなっていたかわかりません。車で帰る途中に津波に遭遇していたかもしれない。後になって、親戚の方が「あのとき帰っていてよかったね。亡くなったおじちゃんやお母さんが“ここにいちゃいけない”と帰してくれたんだよ」と言ってくれました。
森さんの実家は海の目の前。家は流されましたが、そこで暮らしていた父と姉は無事で、親戚の家に身を寄せていたそうです。森さんは2人を引き取るため、3月22日に車で迎えにいきました。
森さん:気仙沼を経由して帰ったんですが、鹿折地区に入った途端、息を飲みました。火災で焼け野原になった地域です。一面灰色になって、船がまちの中で横転していて…。いまでも思い出すと鳥肌が立つくらい、衝撃的な光景でした。そのときに、「ああ、3月11日はほんとうにあったんだな」と初めて実感した気がします。
陸前高田も、つい2週間前にはあったものが何もなくなっていました。その光景を見て、「やっぱり帰らなければよかった。残っていたら、何かできたかもしれない」と思いました。いまだから言えることで、実際その場にいたら何ができていたかわからないんですけどね。
それから1年、父と姉は森さんの家で暮らしていましたが、仮設住宅に空きが出て、現地で家が建てられるかもしれないという希望が見えたため、陸前高田へ戻っていきました。帰れるなら帰りたい。慣れ親しんだ土地で暮らしたい。2人の地元への想いは、森さんの想像以上に強かったといいます。
森さん:私はずっと父と寄り添って生きていこうと思っていて、それが自分の役割のようにも思っていたので、帰ってしまったら胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになってしまって。「何かできることをしなくちゃ」「でも、栃木にいながらできることってなんだろう」と考えていたときに、高校の同級生のイベントに誘われ、地元出身の友人たちと再会しました。
津波の記憶を忘れて没頭できる
森さんの同級生の松原健さんは、「がんばっぺしプロジェクト」を立ち上げて活動していました。「がんばっぺしプロジェクト」とは、東京やその近郊で暮らす東北出身者が、「東京近郊在住者だからこそできる支援」を行うプロジェクトです。そのうちのひとつに、『笑路(わらじ)』の製作・販売がありました。
『笑路』は、「復興への“路”をみんなで笑いあって歩けるように」という願いが込められたビーズ細工のわらじ型ストラップです。これを被災地の人たちにつくってもらい、販売することで支援をしていこうという企画で、既に段取りはできていました。
森さん:被災地へ行って地元の人につくりかたを教え、スタートしようというタイミングで私も参加させてもらうことになりました。
2012年5月にははじめてのワークショップを開催。仮設住宅を訪問し、外に働きに出られない女性たちにつくりかたを教えました。ビーズ細工はとても細かいので、「夢中になれる」「嫌なことを忘れて没頭できる」と好評だったといいます。
森さん:最初の頃は品質を揃えるのが大変でした。検品のとき全部NGになってしまう人もいて。私もずっと陸前高田にいられるわけじゃないので、手紙を書いたり、地元の同級生に教えにいってもらったりして…。それでも、7月にはイベントで完成品を販売することができました。
イベントのいいところは、買ってくれた人の顔が見えるところ。「こんな細かいものを被災地の女性たちがつくっているなんて」と驚く人がいたり、「可愛いし支援したいから」とひとりで5個も6個も買ってくれる人がいたりと、嬉しい出会いがたくさんあったといいます。
三陸鉄道盛駅のふれあい待合室、陸前高田の物産センター、産直はまなすでも常時販売していて、観光客から人気を得ています。
2014.9.9