物語前編

仮設の集会所は、かかあ天下。料理教室に編み物に、女性たちは楽しく集まっています。一方、困ったのが定年後のお父さんたち。さて、何をして過ごそうか…?野田村のお父さんたちが選んだのは、木工。山奥の工房に通い、素朴な製品をつくりはじめました。それがきっかけとなり、ついには太陽光発電所まで建ててしまったというから驚きです。一体、どんな経緯があったのでしょう?「だらすこ工房」代表の大澤継彌さんに教えていただきました。
ひっそり整備してきた、大人の遊び場
野田村は岩手県北東部にある、人口4000人強の小さな村です。車で山道をくねくねと走ると、急に右手の視界が開け、さんさんと日光を受けながら佇む太陽光パネルが見えました。少し先の左手には山小屋が数件並んでいます。ここが『だらすこ工房』。震災前から、大澤さんが秘密の隠れ家のように使っていた場所です。
大澤さん:昔は、叔父さん叔母さんがここに住んでたんですよ。子どもがいないもんだから、私が世話しに通っててね。そのへんにあるものを使ってものづくりをはじめたのが20数年前。それから、古い廃材とか陶土とかサッシとか貰ってきて、コツコツコツコツ、ひとりで工房を整備していました。叔父さん叔母さんが亡くなった後も、壊すのはもったいないから母屋の天井や床を張り替えてね。
そうそう、昔はよくふくろうの声が聞こえてきたんですよ。だから『だらすこ工房』。“だらすこ”は、この辺りの方言でふくろうのことだから。
「定年後は好きなことをやる」と周囲に宣言していた大澤さんは、その計画通り60歳で定年退職。毎日工房に通い、趣味の木工を楽しんでいました。
大澤さん:震災の日もここにいました。いやもう、すごい揺れでしたよ。これは絶対津波が来るって思いましたね。ただ、(津波が来るまで)30分位は大丈夫だろうと思って、家のほうへ向かったんですよ。そうしたらいつものごとく携帯忘れたーって気づいて一度戻って、また出て。途中まで下りたところで、道路に飛び出した人がいたんですよ。「駄目だ、もう来てっから」って。その直後に、どかーんって(津波が)来た。
携帯忘れなかったら、あそこで止められなかったら、いまここにはいなかったんじゃないかな。
太平洋に面した野田村の被害は大きく、500棟近い建物が全・半壊状態となりました。大澤さんの家も流され、奥さんと娘さんは避難所へ。大澤さんは山小屋で暮らすことを選びました。
大澤さん:家は流されたけど、悔しいとかは思いませんよ。だって自然災害だから、どうしようもないもの。ぱっと切り替えて楽しもうということで、山小屋でひとり暮らししようと思ったんです。ある意味気楽というか気ままというか、そんなふうに暮らしていました。
退屈している男性たちの居場所になれば
『だらすこ工房』から車で10分ほどの場所に、築150年以上の南部曲り屋を改装した『苫屋』という民宿兼カフェがあります。オーナーの坂本さんは、「自分だけ被害を受けず申し訳ない」という気持ちから、仮設住宅の女性たちに内職仕事を依頼し、自分のネットワークを使って販売していました。
大澤さん:苫屋さんとはずっと交流があって、「いまこういうもんつくってるんですよ」って見せてたんですよ。そうしたら、「それはいいね、何人か集めてつくってみたら?」って言われてね。
仮設住宅覗くとぶらぶらしてる男の人が何人かいたから、「一緒に木工しないか」って声かけたんですよ。震災の年の、7月か8月だったかな。それで何回か来てくれて、12月になって雪が降ったもんだから一旦中断したのよ。雪が溶けたらまた再開しようって言ってたんだけど、春になっても来なかったから、畑村さんに相談したの。
畑村さんは当時、仮設住宅の自治会長を務めていて、「男性が集まる場所があるといい」と考えていたそうです。

左が畑村さん、右が石花さん
畑村さん:仮設の部屋は狭いでしょ。集会所もあるにはあるけど、あそこはほら、女性のものだから。何かあるっていっても、お料理しましょうとかお裁縫しましょうとか、女性的なものばかりでしょ。じいさんがたはダメなんだ、退屈しちゃって。だから仮設住宅から出て、何かやろうと思ったんですよ。
大澤さん:それで、畑村さんがメンバーを集めて来てくれたの。2012年の6月1日のことでしたね。それから毎日毎日、真面目に通ってくれるようになりました。それがいまのメンバー。畑村さんと、石花さんと、赤坂さんと、広内さんと、私の5人。赤坂さんはいま発掘の仕事していて、広内さんは81歳で心臓が悪いから、忙しいときだけ手伝ってもらってます。だから、いまはほとんど3人ですね。
村を守って倒れた黒松を、製品に変えよう
野田の海の特産品を象った『たつのだ ほたて』と『たつのだ どんこ』、工房にゆかりのある『たつのだ ふくろう』…。キーホルダーやストラップ等のバリエーションがある『たつのだ』シリーズは形もネーミングもユーモラスで、見る人の心を和ませます。
大澤さん:「こんなものでいいのかな、売れるのかな」と思ったんですが、苫屋さん経由で意外と売れてね。でも、売るのが目的じゃなくて、あくまでも好きでやってることだから、注文があってもゆっくりやってます。苫屋さんには「遅い」って怒られるんですけどね(笑)叱られ叱られしながら、マイペースでつくってます。
現在は桑の木や朴の木、桜などさまざまな木材を活用していますが、活動初期は主に津波によって倒れた黒松を使っていました。昭和8年に大津波が野田村を襲った後、村民たちが数年かけて植えた防潮林の黒松です。以前は海岸沿いに1万本近い黒松が並んでいましたが、ほとんどが津波で倒れ、いまでは数えるほどしか残っていません。
大澤さん:もちろん、倒れた木が流れていって誰かの家を壊した可能性はありますよ。でも、津波の勢いを少しは緩和してくれたかもしれない。建物よりも、人の命が助かる方が大事でしょう。野田村を守って倒れた松だから、無駄にはできないなと思って、利用させてもらいました。

まっさらになってしまった海岸
製品の売上の一部は、新たに防潮林を植える費用に充てる予定です。『のだ千年の松プロジェクト』と名付けられたこの植樹計画には、全国からたくさんの寄付が集まりました。県や村とも相談を重ね、計画は順調に進んでいます。
2014.5.9