物語前編

朝日を映しながら静かに波打つ海、針葉樹も広葉樹も混じった新緑の山。三陸の豊かな自然を想起させる色とりどりの織物は絵画のようで、見ているだけで心が和みます。
『織り織りのうたプロジェクト』の発起人である早野さんは、優しいまなざしでそれらを広げながら、東京で始まった織りのうたが岩泉へ引き継がれていった軌跡を語ってくれました。

みんなで少しずつ、織りをつないだヨーガマット

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岩泉町は北上山地の東部に位置し、面積が992.92㎢と本州一広いまちです。その中でも海に接している小本(おもと)地区は、東日本大震災により大きな被害を受けました。

東京都狛江でヨーガ教室を主宰していた早野智子さんは、ご主人の本家が小本にあったことから、震災の10日後に夫婦で三陸沿岸に物資を届けにいきました。同行した早野さんの義父は、「小本は昭和8年の大津波や戦時中の空襲に見舞われ、これまで何度も消えそうになった。でも、こんなのは初めてだ」と切ない表情を見せたといいます。

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震災から約2週間後の小本

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倒壊した親戚宅

早野さん:その表情を見て、主人は「できることをしていこう」と強く思ったようです。それから私たち夫婦は何度も三陸に足を運ぶようになりました。ヨーガ教室の生徒さんたちに協力を募ったらたくさんの物資が集まって、それを持って避難所も訪問しました。

そこで早野さんは、呼吸すら自然にできずに苦しんでいる人々を見て、一緒にヨーガをしようと思い立ちます。早野さんが伝えるヨーガは、体操のように表面的なものではなく、深い静かな呼吸によって心を穏やかな状態に導くというもの。何も考えずただ呼吸を整える静かな時間は、被災した方の心を落ち着けるのではと考えました。

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インド式のハルモニウムを弾く早野さん。これも本来の意味でのヨーガのひとつ

早野さん:「できることはこれしかない」って思ったの。ただ、ここではよくある人工的なビニールのヨーガマットは相応しくないように感じて、使いたくなくってね。ちょうどその年のはじめに機織りを習いはじめていたから、織ろうと思いました。

当時、岩泉町にはもらい手のない衣類がたくさんあったんですね。全国から支援物資として届けていただいたけど、サイズが合わなかったり古すぎたりしていて。だったら、その布を裂いて縦糸にして織れば気持ちも無駄にならない、って。

「独りではないと伝えるには、大勢で関わってさしあげること…」。早野さんはヨーガ教室の生徒さんにも呼びかけ、織り機を持っている先生のところに交代で通いました。時間の合間を見つけて、5センチ、10センチと織りをつないでいきます。そうしてできたヨーガマットは、素人っぽさは拭えないものの温かみのある仕上がりに。5月と、そして6月には合わせて30数枚以上のマットが完成し、これらを使って被災した人にヨーガを体験してもらいました。

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トントン、トントン、何も考えずに織っていく

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「毎日漁をしたり畑したりしていたのに、いまはみんなと喋ってばっかりだあ〜。寂しくはないけどもね」。6月のある日、早野さんは避難所でそんな声を聴きました。海と生きてきた小本の人たちは、みんな働き者。何もできない生活にストレスを、働けない寂しさを感じているようでした。

早野さん:地元の親戚も「仕事が必要だ」と言っていたので、「じゃあこのマットをみなさんに織ってもらおう」と考えたんです。トントン、トントンって何も考えずただ織っていくのは、ヨーガと同じで心地いい時間になるだろうな、って。

織物の先生も賛同してくれて、機織り機を分解して岩泉まで持っていったの。7月に仮設住宅が完成したから、そこで体験会を開きました。20人以上の方が集まってくれたかな。そして、みなさん楽しそうに織ってくれました。

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「このまま仮設に機織り機を置かせてもらえたら、好きなときに織れるね」と話が弾みましたが、そこからが大変でした。仮設住宅は“みんなのもの”なので、特定の人たちが使うものは置けないと言われてしまったのです。手織り機はヨーガ教室の生徒さんからの支援金やさをり織りの団体からの寄付で用意することができたのに、それを置く場所がないという問題に直面しました。

あちこち探しましたが、人が集まれるような建物は多くが倒壊してしまい、沿岸にはありません。内陸にある古い空き家を貸してもらえることになり、大掃除をして使えるように改修しましたが、諸事情あって引っ越すことに。しかし、そこも問題が発生して出ることになりました。

早野さん:「どうしよう、どこも行くところがない」と途方に暮れましたが、織り手の三浦久米子さんから、漁業倉庫の一部を借りられることになったんです。

久米子さんのご主人は元漁師で、誰もが認める働き者だったそうです。朝から晩まで海に出て、すごい出荷量を誇っていたと聞きました。でも、震災で船も機材も道具も全て失ってしまって、もう80に近い年齢もあって再開は諦めたそうです。

岩泉町では海沿いに漁業倉庫を持っていた漁師に新しい倉庫を用意してくれていたんですが、「もうそんなに漁にも出なくなったから、ここを織り織り(のうたプロジェクト)で使ってください」と。そのお言葉に甘えて、畳の休憩室に手織り機3台を置かせていただくことにしました。

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ようやく場所が落ち着きましたが、その間に織り手さんたちは遠くて通えなくなったり、仕事が決まったりして人数が減っていきました。最終的に残った織り手さんは久米子さんひとり。そのほかに数人の方々が、衣類の仕分けや下処理を担当しています。

早野さん:でも、織り織りを卒業する人がいることは、喜ばしいことだと思っていました。絆創膏みたいなものですよね。被災した人が安心できるようになって、必要としなくなったらそれが一番だなって。最初から無理に継続する気はこれっぽっちもなかったんです。だから、去って行く人に対しては、「よかった、よかった」って見送っていました。

だけどね、久米子さんは織り織りを気に入ってくれているの。仮設で暮らしているといろんなことがあるそうです。でも、「もう私はこれ(織り織り)一本でいく!」って、支えにしてくれているみたい。そういう人がひとりでもいるうちは、『織り織りのうた』をサポートさせてもらいたいと思っています。

2014.5.8