つくり手インタビュー

盛岡から車を走らせること数時間。新緑の山々を越えた先にある小本水門のすぐ近くに、目的地はありました。「織り織りのうた」の織り子である三浦久米子さん、ご主人の健一さんの倉庫です。三浦さんはゆっくりと穏やかな口調で、「まあ、遠いところをよく来てくれました」と迎えてくれました。

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山も海も朝陽も、毎日違うことに気づいた

——久米子さんはずっと小本で暮らしてきたんですか?

久米子さん:私はまったく小本から離れたことがないんですよ。若い頃、みなさんが集団就職で…昔はそういうのがあったんだども、そうやってほかの土地に働きに行ったときも、私はここに残りました。それで、2、3軒隣の家へお嫁に行ったものだから、小本以外わからなくてねぇ。

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——ご主人が漁師さんで、震災前はとても働き者だったと伺いました。

久米子さん:そうですねぇ、働きすぎってくらい…。でも、震災後はもうショックを受けちゃってね。もう大きい船をやる年でもないということで、いまは浜や磯の口開けのとき参加するだけ。

以前もこの場所に倉庫があって、地震のときは目の回るようなすごい揺れがしたんだ。ちょうどマツモの口開けの数日後で、外に干していてねぇ。それを全部中に入れて、父さんと一緒に、一番乗りやすい軽トラに乗って。家に行ってリュックサック背負って、父さんが位牌や遺影だけは持っていかないとっていうから包んで逃げたの。

茂師の集会所に行ったけど、余震が来る度にろうそく消せ、ほらストーブ消せって、そんなでもう、寒くて寒くて寒くて…。もう、小雪もちらついてたから。

夜に外さ行って海見たらば、沖の船からの灯りがちらちら見えたから、食糧はどうしてんだべなって思いながら眺めていました。

一夜明けたら父さんは歩いて寺まで行って、そっからうちをみて、「だめだった」って帰ってきて。船は流れて流れて、学校よりちょっと向こうまで…いろいろかぶさって、船名がちょこっと見えました。

——ショックだったでしょうね。

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久米子さん:ずっと、自分で食べるものは海で捕ってきたり畑で育てたりしてきたから、食べるものを買うっていうのは、なんだかねぇ…。ほんとにほんとに、津波によって生活が狂ってしまいました。

95になるおばあちゃんが前の年の11月に亡くなったんだども、昔大津波を経験して、その話を私たちに教えてくれてたのね。でも、若いときは「そんな昔のこと」って取り合わないで。いまになれば、聞いておけばよかったぁ、って。

おばあちゃんはその後たいそう苦労したようで、ようやく築いた財産をまたこの津波でなくさなくちゃなんないっていう…でも、何度もこういう目に遭わなくておばあちゃんはよかったのかなあって思ってもみたり…。

——『織り織りのうた』とはどうやって出会ったんですか。

久米子さん:被災しなかった部落にいる友人から電話があって、「こういうのがあるようだよ、集まりに行ってみたら」って声がかかって。ほんとに、その人のおかげ。「あなたがなんとなくそういうの好きそうだから声をかけてみました」って。

それで行ってみたら、東京からきた先生が、織りでつくった素敵なベスト着ててねぇ、素敵だぁ、ここまではとても及ばないけども、やってみたいなぁ、って思ったんですよ。

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——今までに裂き織りをしたことはあったんですか?

久米子さん:初めてです。ただ、嫁に行った家で、おばあちゃんが1センチくらいの布をいっぱい貯めていて、何するんだろうと思ってたの。でも、これを始めてから、「ああ、家にあった炬燵掛けはこれだったんだな、機織りをする近所のおばあちゃんに渡して織ってもらってたんだぁ」って、ようやく気づきました。

その時は若くてそんなに興味がなくてねぇ、でも、年取ったらやっぱり何か趣味がなければとは思っていたんだ。震災にあったおかげで…おかげばっかりは言えないね、昔の言葉で「ゆくらに」といって、「そのために」という意味なんだけど、震災があったゆくらにこういうのと出会えて、早野さんたちと巡り会えて…。

私はこの仕事をしていなかったら何をしていたのか?なんにもやっていなかったかな、ってふと思ったりします。ほんとうにこれに感謝しているんですよ。ここに来るといつも、「今日もお仕事できてありがとうございます。お仕事させていただいて、感謝してます」って言うの。

全国から届く古着

全国から届く古着

——織りは、すぐにできるようになりましたか?

久米子さん:先生達は普段は東京にいるから、岩泉の「糸ばた工房」の和久石さんに教えてもらいました。でも、織るときに向こう側から糸を引っ張ってもらわないとうまくできなくて、和久石さんに「柱を使ったりして、ひとりでやるんだよ」って言われながらも、手伝ってもらっていました。

それがここへ来たら、さあ大変。やっぱりひとりじゃできないわぁ、父さん悪いけど手伝って、って。こうではだめだ、そうではだめだって父さんをいじめながら(笑)でも、逆に父さんから「今日は引っ張らなくていいのか」って聞いてくれるようになったんですよ。

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——ご主人と2人3脚で織ってらっしゃるんですね。そう聞くと、ますます製品が魅力的に見えてきます。

久米子さん:いえもう、そんな、そんな、そんな…。本当はいろんなところへ行って、展覧会とかも見て、勉強しないといけないんですけど、遠くまで運転するのも楽じゃないものだから…。

——でも、ここまで来る途中の景色がとても綺麗で、自然の色彩から学べることってたくさんあるんだろうなぁと思いながら眺めていました。

久米子さん:ええ、ほんとうにそう。この若葉の時期は、ほんとうに、すてきすてき、って思います。若草色っていうのか、同じ緑でもいろいろあるんだなぁって。赤があったりグレーがあったり、ブルーもだよねぇ。ああ、何色でもいいんだなぁって感じながら歩いてます。

左手前に見える白い建物が、久米子さんが織り織りをしている倉庫です。

左手前に見える白い建物が、久米子さんが織り織りをしている倉庫です。

——「海」も綺麗ですよね。でも、震災を経験して、海が嫌いにはなりませんでしたか?

久米子さん:ありましたねえ。その前に、口開けで父さんと一緒に船乗ってて、風が吹いて傾いたことがあったの。そのときはもう、終わりだって思いました。私は泳げないから怖くて怖くて。だから父さんが海から帰ってくるといつも、「ああ今日も無事に帰ってきた、何事もなくてよかった」って思うのね。そこに今度の津波でしょう。もう海見るのはやだやだやだやだー…って、一年位は思ってました。

でも、山の畑から見る海はやっぱり綺麗でね。どれどれ今日の海はどうだべな、って海が見えるほうをわざわざ回って帰るんですよ。あぁ綺麗だぁ、って思うときもあるし、海もやっぱり一色でなくてね、雪解け水が流れてきたときは水が濁って、沖のほうと陸の方とで線がついたように色が分かれていることもあって。海もいろいろだぁって思いながら帰ってきます。

この「海」「山」を織るようになって、気をつけて見るようになって。見る目が変わりました。父さんがいつも、漁から戻ってくると「朝陽がいっつも同じでない」って言ってたの。それがようやく、わかった気がするなぁって思います。

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——織りつづけてきて、嬉しかったことはありますか?

久米子さん:お手紙をもらうことですね。「『織り織りのうた』プロジェクトのみなさんへ」って、写真つきで、「素敵です」とか「こんなふうに使っています」とか送ってくれて。あぁー、やってよかった、こうやって喜ばれるっていいことだ、気持ちがいい、ってねぇ。それだけでもう、救われます。

それも、Tシャツなんかを全国のみなさんが送ってくれるおかげでこの仕事ができているんだからねぇ。いろんな色が届くから、注文に応じたものが織れるなぁって嬉しくなって。「ああー来た、これこれー」って。ふふふ。それもこれも、早野さんのおかげ。ヨガ教室の生徒さんたちも応援してくださって。

ほんとに、みなさんに感謝しながら、織らせてもらってます。

2014.5.10