物語前編

「被災地にお花を植えたとき、泥や瓦礫の風景の中に彩りが生まれて、通った人の顔がほころんでいたんです」。
通販会社フェリシモで働く児島永作さんは、東日本大震災後、有休などを使いながら東北へ足を運び、泥かきなどのボランティアに勤しんでいました。その際、“お花を植える”という行為が人を和ませることを実感した児島さんは、「東北のお母さんにつくってもらった製品の売上の一部を使って、まちに花を植えていく」プロジェクトを思いつき、会社に提案します。
それが、『東北 花咲かお母さんプロジェクト』の始まりでした。
一方的に支援をされる側ではなく、
地域や子どもたちに何かを与える存在になってほしい
株式会社フェリシモは、兵庫県神戸市に本社を置く企業です。自社で開発した商品の通信販売を行っていて、お洒落な衣料品を集めた『haco.』やセンスのいい生活雑貨を揃える『Kraso』など、数種類のカタログを出しています。申し込んだ商品が色柄デザイン違いで毎月1回届く『フェリシモコレクション』という仕組みが特徴で、大半のカタログでこの定期購入システムを導入しています。
児島さんは、1999年にフェリシモに入社しました。生活雑貨の商品企画を経験した後、発注システムの入れ替えを提案・実行。東日本大震災が発生した当時はファッションの事業部における発注や生産管理の仕事をしていました。
実は震災の半年前に岩手沿岸をドライブしていた児島さんは、そのとき見た美しい景色が津波によって様変わりしてしまったことに心を痛め、ボランティアとして東北を再訪、泥かきや大工仕事を手伝ったといいます。また、会社でも、海の仕事を失った石巻のお母さんたちにセーターをリメイクしてもらい、その商品を販売する企画に関わっていきました。商品は好評でしたが、児島さんは「数人のお母さんたちに仕事を依頼し、お金を渡して終わるのではなく、その次につながっていく活動がしたい」と考えたそうです。
児島さん:フェリシモの名誉会長が主催している勉強会に出席したとき、二宮尊徳が困窮した農村を次々と復興させていった話を知ったんです。
なぜそんなことができたか?いくつかポイントになるアクションがあったのですが、中でも印象的だったのが「報徳金」という基金制度でした。まず、農家に無利子でお金を貸して、高利貸しにお金を返させたそうなんですね。「この借金苦から抜け出せるかもしれない」と希望を持った農家は頑張って働き、10か月かけて二宮尊徳にお金を返した。まさか本当に借金が0になる日が来るなんて思っていなかった農家は、二宮尊徳に感謝して「何かお礼をさせて下さい」と言います。二宮尊徳は、「それじゃあ、あと2か月分だけ同じ金額を渡してください」と答えたそうです。
「それって結局利子じゃないの?」と思いますよね。違うんです。「あなたのような人を5人集めれば、次の1人を救うことができるから」と。つまり、おまけの2か月は、自分が救われるためじゃなくて、次の人を救うために頑張る2か月ということです。それを聞いたときに、「うわー、内職お願いしただけで満足してたらあかんわ」と思いました。
救われた人が、今度は別の人を救うことで、その連鎖はずっと続いていく。東北のお母さんたちにも、「支援される側」ではなく、「地域や子どもたちのために何かを与える存在」になってもらうことが大事なんじゃないか。児島さんはどうすればそれが実現できるか、考えはじめました。
手仕事で、自分のまちに花を咲かせるお母さん
児島さんには、東北でボランティアをしたとき、強く印象に残ったことがありました。それは、2011年のお盆に一度だけ参加した“花壇に花を植える”活動で目にした光景です。
児島さん:お花を植えたとき、泥や瓦礫の風景の中に彩りが生まれて、道行く人の顔がほころんでいたんです。花を植えるという行為は、泥かきや瓦礫撤去と比べて、「すぐに必要なこと」ではないけれど、人の心を和ませるんだな、と思いました。
ここからヒントを得て、児島さんは“基金つきの商品を開発して、売上の一部からつくり手のお母さんの地元に花や緑を植える”仕組みを思いつきました。お母さんたちに、「花咲かじいさん」ならぬ「花咲かお母さん」になってもらい、自分たちのまちを美しい花々で彩ってもらおうというプロジェクトです。
児島さん:僕たちには農業や漁業を復活させるような大きな力はないけど、お花は植えられる。そう考えたんです。企画書をつくって会社にプレゼンしました。
企画は無事通過し、児島さんは実現に向けて動き出すことに。「フェリシモのお客さまにほしいと思っていただけるもの」で、かつ「東北のお母さんたちでもつくることができそうなもの」という視点で商品開発に取り組みました。
最初に企画したのは、優しいポプリの香りが広がるサシェ(香り袋)。通常、試作品の製作等はメーカーに依頼していますが、この企画ではそれができません。児島さんはなんと、自分で試作をしたといいます。
児島さん:僕がお母さんたちにつくり方を教えないといけないから、まず自分がつくれるようにならないと、と思って、他部署の人に助けてもらいながら練習しました。移動の合間、新幹線の中でも縫いものや試作をしていたんですが、通路を通る人に2度見されてましたね(笑)
試作品を携えて南三陸を訪れた児島さんは、もともと町工場で働いていた手仕事グループと出会い、仕事を依頼しました。震災前は機械部品をつくる仕事をしていましたが、津波で工場も家も流されてしまい、「従業員みんなでできること」を模索して針仕事で人形づくりなどをしていた方々です。児島さんの申し出を喜んで受け入れ、製品をつくってくれました。
2012年3月、フェリシモは東北にゆかりのある商品を集めたカタログ『とうほく帖』を発行しました。『東北 花咲かお母さんプロジェクト』もここでデビュー。お客様からの評判も良く、明るいスタートを切ったといいます。
2014.3.24