物語前編

身近な人を失った悲しみ、変わってしまった暮らしへのストレス。震災で命が助かっても、その後の生活で抑うつ状態になってしまうというケースは多々あります。
戸倉地区にある宿泊研修施設『志津川自然の家』仮設住宅に入居した三浦ひろみさんは、しばらくのあいだ家に籠りがちになっていたといいます。しかし、「このままではいけない」と仲間を募り、編み物サークルを始めました。

家族の無事を祈りながら、畑のハウスで過ごした震災の夜

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三浦さん:その日に限ってね、じいちゃんばあちゃん、何も言わずに出て行ったのよ。

震災前、三浦さんは夫、父、母と4人で暮らしていました。三浦さんはご両親の軽ワゴンを借りることが多く、2011年3月11日も午前中は三浦さん、午後はご両親が乗ることになっていたといいます。

三浦さん:帰ってきて昼食の準備とかしてて、ふと気づいたら物音がしなくなってたの。「行ってきますも言わないで出てっちゃったんだ、珍しいな」と思いながらテレビを見ていたら、地震が来て。すごい揺れだったけど、うちは高台にあるから、親戚や足の悪いお年寄りを連れた近隣の人がどんどん避難しにきました。最終的には車10台位になったかな。

三浦さんの家はチリ地震の時も被害を受けなかったので、みんなが「まさかここまでは津波もこないだろう」と思っていたそう。しかし、津波は堤防の上を壁のように越えて進み、沢を登ってきました。三浦さんたちは慌てて二階へ駆け上がったといいます。

三浦さん:その直後に津波が来て、庭に生えていた大きな松の木のてっぺんまで水に覆われました。一階は水没状態。でも、山だからすぐに引いたの。それで下の様子を見に行って。お年寄りを乗せていた車2台がひっくり返っていたけど、流されず中にいて無事だったからほっとしました。おかげさまで、うちに避難して亡くなった人はいなかったんですよ。

その晩は家の畑のビニールハウスで過ごしました。ラジオを持っていたので、みんなで聴きながら。やっぱり、あのときは情報がとても力になりました。炬燵の上に載せていたお茶菓子を持ってきて分け合ったんだけど、一口しか食べられなかったな。主人は仕事で山手のほうに行ってたので無事だろうと思ってたけど、じいちゃんばあちゃんのことがどうしても心配で。みんなは「大丈夫だよ」って励ましてくれたけど、なんか予感がしていたのね。一睡もできなくて、みんな「いま何時?」「夜明けはまだかな」って何度も確認しあってね。あの晩は一番、地獄でした。

翌日はみんなで『志津川自然の家』に移動。そのまま、避難所暮らしが始まりました。三浦さんのご両親が見つかったのは3日後のことだったといいます。

三浦さん:田んぼに車が埋まっているのを主人が見つけたんです。自衛隊に頼んで引き揚げてもらったんですが、その後どこの安置所に移されたかわからなくなってしまいました。結局、私が面会できたのは三週間後。遺体は真っ黒になっていて、別の人みたいでした。

特にばあちゃんは、叫んだままの顔で固まってて、普段とまるきり違ってしまっていたの。認めたくない気持ちもあって、「ばあちゃんじゃないよ」って言ってしまいました。でも、こっちに来てくれた息子たちが「いや、ばあちゃんに間違いないよ」って。…ほんとにね、重いね。でも、家族の遺体が見つからない人だっているじゃない。たくさんの遺体を確認していくのだって、辛いよ。だから、見つかっただけでもよしとしないとって思うことにしました。

みんなで集まって、編み物をしながら話そう

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2013年5月9日、『自然の家』の敷地内に仮設住宅が建設され、三浦さん夫婦はそのまま入居することに。しばらくの間はあまり出歩かず、籠りがちになってしまったといいます。

三浦さん:でも、これじゃ色々考えて塞ぎ込んじゃうし、ぼけてしまうと思って、「とにかく何かしないと」って。編み物だったら以前やってたし、狭い仮設の中でもできるからいいなと思い、「みんなで編み物しませんか、教えますよ」って呼びかけたんです。入居者全員に声かけて、15人位集まったかな。ぎゅぎゅう詰めでした。でも、みんなで編み物するのは楽しくて。好評だったから、11月になってから本格的に始めることにしたんです。

毛糸は、東京にいる三浦さんの息子さんがツイッターで情報を流して集めてくれました。情報は瞬く間に広がり、北海道から九州まで、50人弱から毛糸が届いたそうです。

三浦さん:最初はマフラーとか帽子とか、簡単なものから編んでいきました。そのうちに本もほしいって言ったら、ツイッター経由で何冊も送られてきて、それがかなり助かったんです。徐々に編めるものが増えていって。“先生”っていうより、ほとんどみんなでわいわいがやがや話しながら編むような感じね。とにかく、指を動かしながらお茶っこできればいいなぁって。

団体名は、「自然の家かあちゃんクラブ」、略して「SKC」と命名。「AKBみたいで覚えやすいっちゃ」とみんなで笑いながら決めたといいます。

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しばらくはただ編むだけの日々が続いていましたが、あるときボランティアとして自然の家を訪れていた大学生から、「これ、売れますよ。売りましょう」と提案されました。それが、当時上智大学の2年生だった大西菜月さんでした。

2013.9.11