物語後編

つくり手さんの声を聞くうちに責任感が芽生えた

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販売開始一ヶ月で30万を売り上げ、幸先の良いスタートを切った『Amanecer』。しかし、4月、5月、6月…と、売上は少しずつ落ちていってしまったそうです。

渡部さん:正直に言うと、ほかの事業が忙しすぎて充分に手が回っていなかったんです。僕たちも素人なので、素材をどこからどれだけ仕入れたらいいかとか基本的なところでつまずくことも多く、計画通りに進まないことばかりで。

でも、自宅でできる手仕事ってほんとに需要があるんです。いろんなものが流されてお金が必要なのに、小さなお子さんや介護が必要な両親がいて外に働きにいけないという方が多くて。震災後の暮らしに大きなストレスを抱えている人もたくさんいました。自分で稼いだお金で子どもに服を買ってあげられたり、ちょっとでもお洒落ができたりすれば、心に余裕が出ますよね。

「この仕事があってよかった」というつくり手さんの声を聞くうちに責任感が芽生えて、もっと多くの方に継続的に仕事を提供できるよう、本腰を入れて取り組まないといけないと思うようになりました。

パッケージも、最初はエアパッキンの袋に商品を詰めて出していましたが、勇上さんの提案により透け感のある布の袋に入れることに。商品に添えるカードのイラストとロゴは、『NHK みんなのうた』のイラストを担当したこともある井上雪子先生が描いてくれました。

そうした努力を重ねた結果、2012年秋から売上は徐々に回復。2013年4月には辺見えみりさんがブログで紹介してくださり、大きな反響を呼びました。現在では、売上は月100万を越えているそうです。

渡部さん:本当に、Amanecerは皆さんに支えてもらっていて成り立っています。勇上さんの協力があって、購入していただいた方からの励ましがあって、つくり手さんのがんばりがあって。注文が殺到したときは短い納期でしっかりと品質を保ちながら製作してくれました。無理してくれたこともあったろうと思います。うちのスタッフも、自主的に夜中の2時3時まで残って発送作業をしてくれて。ありがたいですね。

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流行のシルクリボンを使った『むら染めシルクリボンのブレスネックレス』、全国の方々から送っていただいた刺繍糸を使ってつくる『心をつなぐ一万本のミサンガブレス』など、新商品も次々に開発。どれもセンスが良く、“復興”と関係なくほしくなるものばかりです。

兼子さん:女性って、綺麗なもの、可愛いものを触っているとそれだけで嬉しくなるものじゃないですか。だから、製品もつくり手さんたちの気分が上がるものにしました。

『Amanecer』のつくり手さんたちは、仕事を始めてどんどん元気に、お洒落になっていったそう。最初は3人だけだったつくり手さんも、今では17人に増えました。

振り返って、一歩でも進めているかを確認してくれた

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冗談を言い合い、とても仲睦まじく見える兼子さんと渡部さんですが、衝突することもたくさんあったといいます。

渡部さん:自分が当たり前だと思っていたことが当たり前じゃないんですよね。会社の会議では、アジェンダを決めて時間を決めて、しっかり結論を出そうとするじゃないですか。でも、お母さんがたは話がしょっちゅう飛ぶし、時間を気にしないから、話が全然まとまらないんです。

兼子さん:共通言語がないんですよね。こちらからすると、「アジェンダってなんですか」という感じなんですよ。でも、10歳も20歳も若い子に聞くのもちょっと癪だから、こっそりスマホで調べたりして。相手からしたら「真剣に話してるのになんでスマホいじってるの?」って思いますよね。「こっちはさっきの言葉必死で調べてるんだよ」って思いながら、言えなくて(笑)

そうしたすれ違いの経験から、石巻復興支援ネットワークでは “インターンシップ”を“人材育成事業”、“インキュベーション”を“起業家支援”と、地元の人がわかる言葉に言い換えるようになりました。

兼子さん:そうやってどうすれば地元の人が受け入れやすくなるかを考えてくれたのも、やっぱり外から来た人でした。ほんとうに、外の人から力をいただいています。

実は兼子さん、震災後に2度も失語症になっているそう。ある朝起きたら突然声が出なくなっていたといいます。

兼子さん:家や家族は無事でしたが、たくさんの知人友人を亡くしました。たった1日、ほんの数時間の間に何人もの命が失われたという事実を、自分の中で消化できなくて…。ずっと行方不明のままでいてほしかった、どこかで生きているかもしれないと思っていたかった。それで親しかった友達の家にも中々行けなかったんですが、お母さんに「もっと早く来てほしかった」と言われて、「何やってたんだろう」と。

ほかにもいくつかのことが重なって、「こうして色んな活動をしているけど、何ひとつ周りを幸せにできてないじゃん」ってどんどん落ち込んでしまいました。

少しずつ少しずつ積み重なっていた悲しみややりきれなさ。その重みに耐えきれなくなり、兼子さんの心はぽっきりと折れてしまいました。

渡部さん:それまで『やっぺす』は兼子さんがワントップでほかのお母さんたちがついていく形だったので、兼子さんの声が出ない間はほんと大変でした。でも、結果的にはよかったんですよ。お母さんたちが自分で考えて動かざるを得なくなったので。そこから組織の基盤がしっかりしたと思います。

兼子さんの声は一ヶ月程で自然に治ったそう。「周囲の温かいサポートのおかげです」と頷く渡部さんに、兼子さんは「フツー自分で言う〜!?」 と苦笑い。「だって大変でしたもん。兼子さん、ガラスの心もいいところですよ(笑)」と軽口を叩きつつ、「でも、だからこそ弱い人の気持ちがわかるんですよね」と渡部さんは言葉を続けます。

避難所の運営もまちづくりも、パワフルな男性が行うと、どうしても強者の視点で進めがち。そういうところに兼子さんのような人がいると、妊婦や母親、障がい者の視点を教えてくれる。こうした活動に必要なのは、どんどん前へ進めていく人、細かなところに気づく人、両方の人がいること。渡部さんはそう考えているそうです。

兼子さん:うちの団体がここまでやってこれたのって、私のように壁にぶつかるとすぐに立ち止まってしまう地元の人たちを、外の元気な人たちが励ましてくれたからだと思います。

若い人の力ってすごいなって、何度も驚かされました。私が1歩進んでいるうちに、5歩も10歩も進んでいるんです。でも、進んでいく途中でちゃんと後ろを振り返って、1歩でも足を踏み出しているか、止まっているか、確認してくれたから、ついていくことができた。

そして、私たちにできることを求めてくれたのも大きかったな。パソコンの操作は不得意でも、石巻の土地勘とかネットワークとか、そういうことは私たちのほうがよくわかるから。たくさんぶつかったけど、お互いの持っているものを活かしていこうという意識が根底にあったからよかったんだと思います。

渡部さん:ぶつかってぶつかって、この形ですよ。もういまでは何でも言い合えるようになりました(笑)

2011年を、NPOが飛躍するきっかけになった年にしたい

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『石巻復興支援ネットワーク』のスタッフ数は、現在12名。半分以上は地元の方で構成されています。

渡部さん:僕もずっといられるわけではないので、少しずつ業務を引き継ぎしてきました。受発注業務など、今まで僕がやっていたこともどんどん覚えてもらっています。

『Amanecer』の目標も、「デザインも含め、全ての仕事を地元の人でできるようになること」。勇上さんもやがて自分の手が必要なくなることを望んでいます。簡単なことではありませんが、「お母さんたちが自分でつけたいと思えるものを考えるところから始められたら」と考えているそう。少しずつできることを増やして自立しようとしています。

震災前はほとんどパソコンを使わず、NPOがどんな組織なのかもよく知らなかったという兼子さんも、この2年でしっかりとNPOの役割を理解し、内閣府の事業を受託するまでになりました。

兼子さん:まだまだ世の中では、NPO=ボランティアと思っている人もいると思います。でも、社会の課題を解決するということは、行政と同じ役割なんですよね。こうした活動をしている人がちゃんと生活していけるようにしないといけないと思います。

阪神大震災が起こった1995年がボランティア元年なら、東日本大震災は事業型NPO元年になったらいいな。NPOが飛躍するきっかけになった年、NPOと企業と行政が当たり前のように連携するようになった年。そうなったら、今までがんばってきたことが報われると思います。

さまざまな特技を持った石巻の「達人」を巡る交流プログラム、石巻で新しく事業を立ち上げる女性や若者の支援、子どもたちの遊び場づくり。この2年間で、『石巻復興支援ネットワーク』はさまざまな事業を立ち上げてきました。

母親である兼子さんが気になるのは、やっぱり石巻の子どもたちのこと。復興に向けてがんばる大人たちの背中を見て育った子どもたちは、自分も石巻のために何かしたいと思うようになるかもしれません。大人から押しつけるのではなく、子どもたちから自然に出てくるのを待って、それを実現する手助けがしたい。そう言って明るい眼差しを見せます。

兼子さん:彼らが大人になったときは、もっと良いまちになっているんだろうな。子どもたちに期待しながら、いま自分にできることをやっていこうと思います。

2013.7.21