物語前編

「がんばって」「応援しています」——震災後、東北には全国からたくさんの温かい言葉が届きました。そうした励ましを受け取り続けていた南三陸のお母さんたちは、「今度は自分たちが全国の人々を励ましたい」と思うようになったといいます。
“私たちは私たちの場所で。あなたはあなたの場所で。それぞれの場所で、一緒にがんばっていけますように”。——「おらほもあんだほもがんばっぺし!Bag」に込められた想いを、南三陸ミシン工房代表の熊谷安利さん、デザイナーの吉田裕美さんに伺いました。

「ミシンがあれば、支援物資でいただいた服の丈を自分で直せるのに…」

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震災が起こった 2011 年 3 月。熊谷さんは店長を務めていた神奈川県川崎市のオーダーカーテンショップを退職し、独立して自分のお店を開くための準備をしていたところでした。

熊谷さん:両親が東北出身なので、聞き慣れていた地名がテレビから聞こえて来て、居ても立ってもいられなくなりました。退職後比較的自由に動けたので、そのまま東北に向いました。

一ヶ月を被災地で過ごし、カーテンショップを開くという気もちより、東北で自分にできることをしたいと思うようになった熊谷さん。そんな時、現地のお母さんたちの声を耳にして、「南三陸ミシン工房―ミシンでお仕事プロジェクト―」の活動に携わるようになったといいます。

熊谷さん:「ミシンがあれば、支援物資で頂いた服のサイズがあわなくても自分で直せるのに…」「介護が必要なおばあさんや、まだ小さな子どもがいて外に働きに行けません。仮設住宅の中でミシンを仕事にできたらいいのに…」。そんな女性たちの声を聞き、このプロジェクトが立ち上がりました。ただミシンをあげて終わりではなく、それをさらに「ものづくり」や「仕事」へとつなげる自立・生きがい支援のプロジェクトです。現地に滞在して、「今必要なのは、物もそうだけど、仕事や生きがいなんだ」と、そう感じたんです。

熊谷さんは 2011 年 10 月から、このプロジェクトの運営スタッフとして南三陸と首都圏を行き来することになります。毎週金曜の夜にボランティアスタッフ数名で東京を出発し、土曜の朝に南三陸入り。地元の方々の話を聞いたりミシン講習会を開いたりして日曜の夜に東京へ。平日はミシンなどを集め、週末はまた南三陸へ…という生活が始まりました。

全国から集まった寄付をミシンに変えて、現地の仕事をつくっていく

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熊谷さん:まず、全国から1口3000円のミシン代の寄付を募りました。6口1800円で、1台のミシンを購入できます。そして、あちこちの仮設住宅に声をかけ、ミシンを使いたい人に集まってもらって、南三陸でミシンの講習会を開催しました。

さらに、自分がいたインテリア業界へ知人などを通じて協力を呼びかけたところ、カーテンの余り生地などが集まりました。集まった生地をミシン講習会に参加した南三陸町の女性たちに渡し、2011年11月からは、作品の販売も始めました。

たとえば、ミシンと裁縫セットで2万円なのですが、それを生活費として使えばすぐ無くなってしまいます。でも、そのミシンを仕事にできれば、それで4万円、20万円と稼いでいくこともできるのです。自分の力で働いて収入を得られると、自信にもなりますし、社会とつながっている実感も得られますよね。

当時の南三陸には、やることのない仮設暮らしの中、辛い記憶ばかりが蘇り、夜寝つけずに睡眠薬を服用している方も大勢いました。眠れないときにミシンでものづくりを始めると、気持ちが落ち着く。熊谷さんはそんな声をたくさん聞いたそうです。

熊谷さん:元々、南三陸は縫製業が盛んな町です。洋裁の専門学校があったので、中学卒業後はそこに進学し、アパレルメーカーの工場に就職する方がたくさんいました。後から知ったことですが、ミシンと親和性が高い地域だったのです。講習会では、最初は外部から講師が来ていましたが、徐々に地元の人にその役割を移行。お母さんたちがお互いに教え合いながら、技術を伸ばしていきました。

ミシンがもたらした、お金だけではない、たくさんのよろこび

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最初のころは、作った作品をそのままイベントなどで売って、その分のお金を縫い手それぞれの収入にしていたお母さんたち。徐々に、デパートに置いていただけるようになったり、大手企業から縫製の仕事をいただけるようになったりしてきたといいます。最初のころは家庭用ミシンを使っていましたが、徐々に、ロックミシンや職業用・工業用ミシンも使うようになり、縫製の幅も広がっていきました。

熊谷さん:少しずつ仕事が軌道に乗ってきたのが、2012年の春ぐらい。そのころから、この活動が、単なるお金を得るための手段だけでなく、たくさんのものをもたらしてくれることがわかりました。

ミシンの仲間ができること。誰かに必要とされ、頼られる存在になれること。自分が成長していく実感が得られること。ものづくりのよろこびを感じられること。社会や、全国の方々とつながれること。そのひとつひとつが、被災した場所で工房のおかあさんたちが毎日前を向いて生きていくための、大切な支えになっていったといいます。

熊谷さん:南三陸で、みんなとよく話すんです。なにげない、ちょっとしたことが、どれだけありがたいか。「ものづくりのよろこび」と「人と人がつながることで生まれる、奇跡のような力」を、私たちはこの活動を通して知りました。多くを流されたこの地でなお、人の力ってなんてすごいんだろうって思わずにはいられません。

このバッグをつくることで、お母さんたちのスキルが高まる

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2012 年の夏に、東京の広告代理店でデザイナーを務める吉田裕美さんが途中からこの活動に合流しました。

吉田さん:普段の仕事でもそうなんですが、何かをつくるときって、まずできあがったものを思い描いて、そこから逆算してつくろうとしてしまいがちです。でも、私は以前それで失敗したので、まず現地の状況や条件を知り、その中でできるものをつくろうと考えました。

もともと、大手デパートの担当者や現地の縫い手たちやミシン講師やボランティアスタッフの発案で企画されていた「おらほもあんだほもがんばっぺし!Bag」。そこに吉田さんが途中から関わるようになって、少しずつ形ができていきました。

吉田さん:材料は、他のボランティアスタッフの意見で、手に入れやすいカーテン生地を使うことになりました。

次にデザイン。カーテン生地はエレガントな柄が多いのでターゲットが偏ってしまうし、一枚の生地でつくると、柄によって売れ行きが大きく変わってしまいます。みんなで話し合って、これをカバーするために、生地を組み合わせてひとつのバッグをつくり、一枚一枚のインパクトを軽減させることが決まりました。

形をシンプルな正方形にしたのは、お母さんたちのスキルを高めるため。シンプルだからこそ、縫い目が曲がっているととても目立ちます。ミシン工房のお母さんたちのスキルは人によってバラバラ。このバッグをつくることが練習になってミシンのスキルが上達し、自信を持って縫製の仕事ができるようになる。そういった意味合いもあって、このバッグができていきました。

このバッグの仕様や縫い方などを工夫して考えたのは、八王子のカーテンショップ「めいくまん」の鈴木恵美子さん。鈴木さんは、以前JICAの青年海外協力隊として、バングラデシュの女性たちの自立支援のためにミシンを教えていた経験がありました。

吉田さん:鈴木さんはプロジェクトの初期のころから、ミシンの講師としてこのプロジェクトに関わってくださっていました。鈴木さんが縫い方を一つひとつ工夫して考えてくださって、最終的な仕様が決まったんです。現地のおかあさんたちに、鈴木さんが縫い方を教え、試行錯誤を重ねた後、オリジナル製品『おらほもあんだほもがんばっぺし!Bag』が完成しました。

2012 年 7 月に『LIGHT UP NIPPON』のイベントで製品を販売したところ大好評。2 日目の午前中には完売してしまいました。

熊谷さん:皆さんから評価していただけて、ミシン工房が次のステージへ登ったことを感じられました。

2013.7.11