物語前編

「自分が一番、役割を探してたんだと思う」。
窓の外を通り過ぎる樹々の緑の中に、鹿のシルエットが描かれた『飛び出し注意』の看板の黄色が一瞬混じる。山のように積み重なった牡蠣の殻の絨毯の向こうに、碧い海が見える。OCICAの作業所に向かう車の中で、友廣さんは震災後、自分がどのように牡鹿半島に関わっていったのかを話してくれました。
いま、本当に必要なことは何だろう
友廣裕一さんは1984年、大阪生まれ。大学卒業後、『ムラアカリをゆく』と題して日本中の農山漁村を旅したことをきっかけに、人と地域をつなぐことを生業として活動するようになりました。東京を拠点に全国をかけ巡る日々を送り、震災当日は秋田にいたといいます。震源地を聞いて頭に浮かんだのは、旅を通してお世話になった人たちの顔。すぐに現地に行って、力になりたい。でも、いま行っても邪魔になるだけかもしれない。ETIC.(*1)から電話がかかってきたのは、そういった迷いや焦燥感を感じていたときのことでした。
避難所を回って、災害弱者と呼ばれる人に必要な支援を届けること。それが震災後すぐに結成された『つなプロ』(*2)のミッションのです。友廣さんの役割は、石巻沿岸地域のエリアマネージャーとして、多数のボランティアをまとめること。いくつもの避難所を回り、たくさんの人の話を聞く毎日。「この頃が一番、しんどかったかもしれない」と友廣さんは振り返ります。
友廣さん:困っている人たちはたくさんいて、やることも山ほどある。でもじゃあ自分には何ができるのか、本当に何をすべきなのか。何が正しい支援なのかということも含めて、ずっと迷っていた気がする。
震災後、傷ついた人々を少しでも癒そうと、全国からたくさんの支援が集まりました。被災した人々は、住むところと食べるもの、そして応急的な仕事を与えられました。それは確かに善意によって行われていたし、被災者にとっても必要なことだったでしょう。でも、仮設住宅に住み、保存食を食べ、必要かどうかわからない緊急雇用の仕事をして報酬を得ることは、震災前に営んできた暮らしとは絶対的に違います。自分の仕事に誇りを持って働いてきた人たちが、程度の差こそあれ、それなりに動けば日給1万円くらいもらえてしまうような日々を送る。形だけのものを与えられるばかりの状況は、不自然なものに映りました。それは、人の生きる力を奪っているのではないか。
そういった想いがまだ言葉にならず頭の中をぐるぐるめぐっていたころ、友廣さんの目は、牡鹿半島の日常風景の中からあるものに焦点を当てました。鹿です。半島内を車で走っていると、牡鹿半島という名前の通り、相当数の鹿と遭遇しました。しかもその角は、一年に一度生え変わります。地域に豊富にありながら、誰も見向きもせず、十分に活用されていない。いわゆる“未利用資源”というものです。これを使って、何かを作れないだろうか。そして、それを地元の人たちの仕事にできないだろうか。
* 1.ETIC.:社会イノベーションを生み出すリーダーを輩出するNPO
* 2.つなプロ:被災者とNPOをつないで支えるプロジェクト。ETIC.は幹事団体の一つ。
必要な人、必要なものが自然と集まってきた
そう閃いてからというもの、友廣さんはいつもカバンに鹿角を入れて持ち歩き、会う人会う人に見せて加工方法を相談するように。「それならちょうどいい人がいる」と紹介してもらったのが、元捕鯨船乗組員で、現在はキャンプ場管理の仕事をする阿部勝四郎さんでした。阿部さんはキャンプ場に落ちている鹿角を拾っては、趣味で加工してキーホルダー等を作っていたそうです。鹿角の性質をよく知っていて、加工の技術を持っている。まさに求めていた人でした。
阿部さんの協力を得て、加工方法については道筋が見えました。しかし、鹿角をどう調達するかという点が悩みの種。いくらあたりに落ちているからと言って、自分たちで拾って回るのでは効率が悪い。そもそも、商品にする程の量があるのかどうかすらわかりませんでした。
頭の片隅でいつも鹿のことを考えていたある日、友廣さんは道の駅で鹿肉の缶詰を見つけます。一口食べて、その美味しさに驚きました。ラベルに記載されていた食肉加工販売会社『丸信ワイルドミート』に電話をかけると、社長の三浦信昭さんは「とりあえずうちに来い」と言います。事務所を訪れると、テーブルの上にはホットプレートがどんと置いてあり、美味しい鹿肉を振る舞ってくれました。猟師でもある三浦さんは、友廣さんの想いに共感し、猟友会の仲間に働きかけて鹿角の調達をしてくれることになりました。
こうして鹿角を加工できる環境が少しずつ整う中、友廣さんのもとにはプロジェクトを支える仲間も集まり始めていました。ETIC.が企画する、復興に向けて活動する人の“右腕”を派遣するプログラムを利用してやってきた若者、コンサルタント会社を辞めて手伝ってくれることになった大学の後輩…。彼らとは後に『一般社団法人つむぎや』を設立することになります。
「こういうプロジェクトって、方向性さえ間違っていなければ、自然と必要な人やモノが集まってくるんですよね。不思議だけど」と友廣さんは感慨深そうに振り返ります。OCICAのつくり手となる牡鹿半島・牧浜のお母さんたちと出会うきっかけをつくったのも、石巻出身の元スタッフ、齋藤睦美さんでした。
齋藤さんのお母さんは教員で、新任の時牧浜の人たちにとても温かく迎えてもらったといいます。そのご縁を辿って区長の豊島富美志さんと話をすることに。「支援に頼るのではなく、住民が自立しないといけない」という考えを持っていた区長はつむぎやの想いに共感し、地元の女性たちに声をかけてくれました。震災以前は牡蠣の殻剥きをしていたけれど、津波で全てが流され、仕事を失ってしまった方々でした。
友廣さん:鹿角を使って、職を失った女性の手仕事づくりができたらいいな。そう考えて動いてきたけど、良い意味でも悪い意味でも、期待はしてなかった。いや、しないようにしてた、って感じかな。こんな状況だから、話をしていくうちに地元の方々のテンションが変わることもあるだろうし。期待するとむりやり進めて、引っ張り上げるようなことになっちゃう。それはしたくなくて。だから、自然とよい出会いがあったら、一緒にはじめられたらいいかな、と。
この仕事を必要としている人、同じ方向を見て歩こうとしている人。牧浜のお母さんたちは、まさにつむぎやが出会いたいと思っていた人たちでした。
2012.9.25